講談社電子文庫    青い都の婚礼 ムーン・ファイアー・ストーン5 [#地から2字上げ]小沢 淳   目 次  1章 滅びの火種  2章 黒鳥の伝言  3章 月の婚礼  4章 新婚の夜  5章 都への道  6章 ベル・ダウの暗雲  7章 再会  8章 |魔術師《まじゅつし》の対決  終章 都への復興  グリフォンの求婚(後日談)   あとがき     1章 滅びの火種  小宮殿の一室に監禁されたままのセナ=ユリアは、ただひとつの|格《こう》|子《し》のはまった窓から外をながめていた。  そこからは、婚礼の準備にわきかえる青い都の大通りが見えた。いつもは|青《せい》|石《せき》の|彩《いろど》りしかない町並みが、小宮殿のまわりだけはどんな都の祭りにも負けないほどのにぎわいをみせていた。  それが彼女自身の婚礼を祝うためのものであると、セナ=ユリアにはまだ実感がわかなかった。ふたつの月が合わさる日にいつも、集まった大勢の|都人《みやこびと》たちを見おろしていたときと同じように。  |異《い》|邦《ほう》の地に根をおろした同胞たちのささやかな都を、彼女は誇りをもってこよなく愛してきたが、そこに暮らす人々のいとなみは遠いものだった。  婚礼の日まで彼女は、婚約者とまみえることを禁じられた。  婚約者のために、彼女は初めて、都の実質的な支配者であり、幼いころからの保護者だった|老魔術師《ろうまじゅつし》にさからった。  その|罰《ばつ》として、婚礼の日まで監禁されることになったのだが、彼女はいささかの後悔もしていない。  いかに老魔術師から|叱《しっ》|責《せき》されようと、彼女は婚約者とともにこれからの人生を歩んでいくつもりだった。ふたりでともにすごす日々を思えば、老魔術師の怒りなどいつのまにかおそろしくなくなっていた。 (婚礼をあげれば、ずっとあの方といられる——あの方こそ、わたくしを真に|導《みちび》いてくださるお方)  引きあわされた婚約者は、何から何まで彼女にふさわしかった。|高《こう》|貴《き》な|物《もの》|腰《ごし》も、王族らしい|威《い》|厳《げん》も、まわりを冷ややかにながめおろす誇りたかい|孤《こ》|高《こう》さも、彼女が理想としてきたものだ。  十七歳の|乙《おと》|女《め》らしく、涼しげで|精《せい》|悍《かん》な|容《よう》|貌《ぼう》に初対面でひきつけられたのも確かだったが、それだけではこんなに心は動かなかった。彼女は都の|象徴《しょうちょう》たる高貴な|巫《み》|女《こ》であり、町娘のように相手の素性もかまわずひとめぼれできる身ではない。  ともに手をとりあい、都の象徴となり、都人の|歓《かん》|呼《こ》にこたえられる相手でしか、彼女の隣に座す者はありえなかった。彼女はこれまで、そうした誇りだけで孤独をいやし、さびしさに耐えてきたのだから。 (あんなお方がいるなんて——義務でしかなかった婚礼の相手が、あんなすばらしいお方だったなんて) (運命、というものがこの世にはあるのだわ。あの方とわたくしをこんなふうに引きあわせたのは、運命としか思えない)  頭を冷やすように申しわたされ、監禁された彼女だったが、つれづれに考えるのは|愛《いと》しい婚約者のことばかりだ。  婚約の儀のときの金の衣につつまれて超然としていた彼の姿や、|露台《バルコニー》から|都人《みやこびと》に婚約を報告したときの落ちつきはらった横顔や、特別に会わせてもらったときに寄りそったあたたかな胸の感触を、くりかえし大切に思い出していた。  彼が|老魔術師《ろうまじゅつし》のわざによって、意志をもたないあやつり人形となっていることなど、彼女には知るすべのないことだった。  婚礼の準備に明けくれる青き都は、晴れの日に向けての飾りつけや祭典の準備がほうぼうですすめられていた。  神殿で婚礼の式を終えたふたりは、都の大通りを|輿《こし》に乗って行進することになっている。  行進について、チェルケンはあまり気のりしなかった。  恒例となっているセナ=ユリアの顔見せと同じように、小宮殿の露台からふたりして手をふるくらいでかまわないと、この慎重な老魔術師は思っていた。  そこまで民衆に親しみを与えるのはのぞましくないし、何か突発的な事件でもおこっては、つみあげてきた権威に傷がつく。  しかしあまりにも都人の要望が強かったので、チェルケンは仕方なく許可する形となった。  ナクシット教団の攻撃にそなえる都の守りは、都の裕福な商人たちに負担させているせいもあり、まったく彼らの要望を無視するというわけにはいかなかった。  多くの者たちは、ラウスターの|魔術師《まじゅつし》でしかないチェルケンのためではなく、彼ら自身の都と、その象徴である|高《こう》|貴《き》な王族を守るために働いていた。  |狡《こう》|猾《かつ》なチェルケンはそれをわきまえていたし、必要以上におもてへ出て反感をかうような|真《ま》|似《ね》はしなかった。  緑の谷の周囲にはささやかな石の|砦《とりで》がつくられ、交替で見張りが立った。  ベル・ダウの山岳地からセレウコアの国境にいたる要所には、商人をよそおった見張り|兼《けん》伝令が差しむけられている。そのほとんどは、都人の|無償《むしょう》の力を借りていた。  まだ隠れ里同然の都には、ちゃんとした軍事組織のようなものは存在しない。  これまでの都は、|異《い》|邦《ほう》の地に散らばった同胞たちの安らぎの場であり、|貴《き》|石《せき》や貴金属の原石を仕入れる場として機能するのがせいいっぱいだった。  同じベル・ダウの奥地に、ナクシット神の最初の声がもたらされたという教団の聖地があるらしいことは知られていたが、都人の多くは気にとめていなかった。  商用などで山を降りる都人たちが、待ちぶせたナクシットの信徒から|頻《ひん》|繁《ぱん》に襲われるようになったのは、ここふた月くらいのことだ。  狂信の徒と呼ばれるのにふさわしく、ナクシットの者たちは〈月の民〉の皆殺しを叫びながら、石を投げたり、矢を|射《い》かけたりしてきた。  しかし、もともとは農民か商人らしい信徒たちはそうした襲撃に慣れていないらしく、それほどの被害も与えることができず、旗色が悪くなるとすぐに退散していった。  ベル・ダウを行き来する|都人《みやこびと》たちは武装し、ナクシットの襲撃にそなえるようになった。  山岳の道では幾度も、小ぜりあいがおこった。  あからさまに敵意をあらわすナクシット教団の存在によって、やっと都側も防衛することをはじめたのである。  国としての形もととのってない都を、とりあえずナクシット教団に対抗して結束させるためにも、華々しい婚礼は最適だった。  セナ=ユリアの思いがけない反抗や、要望をつきつける有力な都人に|危《き》|惧《ぐ》するところはあっても、そのほかの点ではおおむね、チェルケンの思うがままに事態は回転していた。  キルケスの開発した装置の効果は予想以上だった。  神殿の|岩《いわ》|室《むろ》をつきぬけた火の柱は、ベル・ダウの|山《さん》|麓《ろく》に|落《らく》|雷《らい》し、山火事となって近隣の村を焼いた知らせは、山道に配した伝令の者によってほどなく届けられた。  |詳細《しょうさい》はまだ報告待ちだったが、ナクシット教団が|占領《せんりょう》していた村のほとんどが|壊《かい》|滅《めつ》したという。セレウコアの都や各地の分教所から集まってきた信徒たちの多くも、山火事にまかれたらしい。  ナクシットの聖地の方面を探っていたチェルケンの助手の|魔術師《まじゅつし》のひとりは、都の入り口ちかくに飛んできた黒鳥を捕らえた。  教団内の魔術師が、〈月の民〉の都の位置を確かめるために飛ばしたものらしかったが、チェルケンはそれを調べ、反対に鳥の放たれた位置をつきとめた。 『ベル・ダウ近辺から立ちさらねば、さらなる天の怒りが見舞うであろう』  そう警告をしるした皮紙を結びつけ、チェルケンは黒鳥をナクシットの聖地にもどしてやった。  黒鳥がもたらした正確な|座標《ざひょう》をもとに、チェルケンは装置の実験をくりかえした。  黒鳥の飛んできた場所からいって、ナクシット側も都の位置を割りだしている可能性もあり、急ぐ必要があった。  婚礼の準備はほかにまかせ、チェルケンは|腹《ふく》|心《しん》の助手たちと|岩《いわ》|室《むろ》にこもった。  都の大事であるから、キルケスも私情を抑え、全力をあげて協力していた。  かならずしもリューを利用しなくても、石の力を引きだすことはある程度、可能になっていた。  いったん、すさまじい火の柱の形で発現し、増幅された力は、次からさらに発現が容易になり、まだ個人差はあれ、ほかの者でも石は反応した。  共鳴するご神体[#「ご神体」に傍点]の大きな石をまきこみ、より一点に力が集中するように改良して、わずかな反応も点火装置となることが可能になった。  チェルケンみずからが実験台となり、ナクシット教団の聖地に照準をあわせた実験もまずまずの成功をおさめた。  ベル・ダウ|山《さん》|麓《ろく》の|落《らく》|雷《らい》よりは規模が小さかったが、聖地のある方向で|幾《いく》|筋《すじ》かの光が発し、地震のごとく地は揺れたという報告がもたらされた。  不可思議な落雷と、それのもたらした多大な被害と、黒鳥に結びつけられた警告に、さしもの狂信的なナクシットの徒も|怯《おび》えている様子である。  山麓の地のほうは、セレウコアの|討《とう》|伐《ばつ》|軍《ぐん》に抑えられたままだ。  ひとまず当面の都の危機はさけられたと、チェルケンは判断した。  とりあえずこのあたりでいいだろうと、|老魔術師《ろうまじゅつし》は聖地への攻撃をやめた。婚礼も間近にせまっていることであるし、セレウコアの動きもみる必要があると。  血気さかんな助手の若いケラスなどは、教団が|壊《かい》|滅《めつ》するまで手をゆるめるべきではないと主張したが、耳を貸すチェルケンではなかった。  婚礼の日がおとずれるまで、リューもまた神殿の一室に閉じこめられていた。  見張りを|人《ひと》|質《じち》にしてあばれてから、彼に対する|警《けい》|戒《かい》はきわめて|厳重《げんじゅう》だった。意識のあるときは|牢《ろう》|獄《ごく》の部屋の中でも足かせをはめられていたし、何かのために部屋から出るときにはかならず、チェルケンがやってきて術をほどこした。  彼はずっと機会をうかがっていたが、逃げる|隙《すき》はなかった。  ときどきチェルケンの目を盗んでやってくるキルケスだけが、彼のつれづれの話し相手だった。  武器になりそうなものは無理にしても、そのほかのものならば彼の望むものを差しいれしてもくれた。  まだキルケスに対して怒りはあったが、とりあえずはそれを抑え、リューは情報を引きだすことにつとめた。  おかげで、閉じこめられたままでいながらも、彼は都の様子や取りまく状況を大まかに|把《は》|握《あく》できるようになった。彼がさらわれて監禁され、装置の実験台やチェルケンの|傀《かい》|儡《らい》として利用されている背景もつかめてきた。  もろもろの怒りや|憤《いきどお》りが静まったわけではないが、時間はいやになるほどあり、彼はいろいろ違った視点から、置かれた立場を考えはじめていた。  チェルケン一味のやり方はひどいものだとしても、彼の存在が同胞たちの希望となり、ひとつにまとめる役割をはたしているのは確かのようだ。  キルケスもそこを強調していた。キルケスとても全面的に賛同しているわけではないが、大きな目的の前には個人の小さな|思《おも》|惑《わく》など捨てて協力しているのだという。 「かつてのリウィウスで、わたしを戦いに狩りだした大義名分も同じようなものだったな。ラウスター軍が攻めてきて、国は危機的状態にあるゆえ、軍勢を|率《ひき》いて戦えと」  たびかさなるキルケスの説得に、リューはいつも冷ややかにそう応じた。 「十四、五歳のときから、わたしはそれを素直に信じ、ほうぼうの戦いに将として|遠《えん》|征《せい》した。十代の後半を、ほとんどそうやってすごしてきたんだ——戦いに成果があり、わたしの評判が高まると、大義名分を押しつけて高見の見物をしていた兄弟たちはそれを|妬《ねた》み、地位をおびやかされると|警《けい》|戒《かい》し、|刺《し》|客《かく》を差しむけた。リウィウスを救うために進軍していたのに、ラウスター軍をよそおった味方の軍に追いつめられ、殺されかけた」  リウィウスでの過去にふれられると、彼の表情はけわしくなり、かつてラウスターや近隣諸国をおそれさせた年若い猛将の|面《おも》|影《かげ》をよみがえらせた。 「あのときわたしは、事実上、殺されたのと同じだと思う。リウィウスの王族としてのわたしは、あのとき消滅したんだ。大義名分に従うむなしさが、身をもってわかった。そんなものにおどらされ、誇りをもって死ぬことの馬鹿馬鹿しさが。  あるきっかけでそれに気づき、リウィウスの王族とは別の、違った存在として生きるべく、|異《い》|邦《ほう》の地ですごしてきた——それをまた、リウィウスの名のもとにわたしの自由を奪い、仲間と引きはなし、新たな大義名分のために働かせようというわけだ、拒否する権利などないとばかりに」  見張りに立っている助手にも聞こえるように、彼は力説した。  チェルケンの腹心の助手である若いケラスは、ふたりのやりとりにいつも関心をしめしていた。 「お怒りはごもっともです」  キルケスは同じ言葉をくりかえすしかなかった。 「ごもっとも[#「ごもっとも」に傍点]と本当に思っているなら、むだな説得はよすんだな。かつてと同じ|轍《てつ》は踏みたくない」 「わたくしは心から、あなたが|異《い》|邦《ほう》の地の同胞たちを|導《みちび》く君主となってくださることを期待してます。なんの打算もない、リウィウス人としての願いとしてです——多くの都の民は、わたくしと同じ気持ちだと思います。けっして大義名分などではございません」 「それこそ利用されているだけだ。わたしが王族としての義務を押しつけられ、同胞の都を守るために働けと命じられているのと、根は同じだ——都の民たちはみな、もう失われて意味のない|権《けん》|威《い》におどらされ、無私無欲で働くように命じられているんだ」 「では、せっかくここまで築きあげた都が、|邪教《じゃきょう》集団などに踏みにじられてもよいとおっしゃるわけですか」  こうした議論がつづくと、キルケスはなかば泣き声となり、実際にせまっている危機をうったえた。 「踏みにじられていいとは思わない。同胞たちの都だからとはかぎらず、セレウコアでも、小さなオアシス市でも、いいとは思わないだろう。しかし、だからといって、踏みにじられないためには、人に何を要求してもいいし、なんでも我慢すべきだということはない」  リューも|頑《がん》|固《こ》に言い張り、話はいつも平行線に終わった。  部屋の見張りをつとめている助手のケラスは、話に入りたくてうずうずしていた。  一連のリューの主張は、チェルケンにかならずしも従う必要はないという理屈にもすりかわる。野心家の助手は、そのあたりに引きつけられていた。  婚礼も近いあるとき、ケラスはたまらず口をはさんできた。ナクシットの聖地への実験が、成果をおさめたとわかってのちのことである。 「それほど案じずとも、都は大丈夫じゃないのか、キルケス殿——ナクシットの|輩《やから》どもに踏みにじられることはないぞ。あんたの考案した装置をうまく用いれば、だ」 「どういうことだ、うまくとは?」  |眉《まゆ》をしかめ、|警《けい》|戒《かい》してキルケスは問いかえした。 「ナクシットの徒など、都へ攻めこんでくる前にやっつけてしまえるはずだ。チェルケン殿は情けをかけたのか、途中で手をゆるめてしまわれたがな——俺にいわせれば、連中を|完《かん》|膚《ぷ》なきまでに滅ぼしてしまえば、あとは都に近づく者など、めったなことでいなくなると思うんだがな」  |忿《ふん》|懣《まん》をぶつけるように、ケラスは言った。チェルケンの前ではいっさいの異論をはさめない反動がここにきて吹きだした。 「それはちがうな、むしろ逆効果だ。セレウコアや東のタウのような大国はかえって、都の存在を|警《けい》|戒《かい》し、|得《え》|体《たい》の知れない力の正体を探ろうとするはずだ」  リューはそっけなくこたえた。 「意外なほど、あなたは慎重だな、リューシディク殿——あなたの華々しい戦いの経歴や、ここを脱出しようとした大胆なやり方からいって、直情型のお人だと思っていたのだが」  助手はやや失望した様子だった。 「残念だったな、わたしは昔のことなど忘れたし、やっかいごとが何よりも嫌いだ」 「何もやっかいなことはない。セレウコアだの、タウだの、他国がこちらに手をのばしてくるようなら、ナクシットと同じめにあわせてやればいいのだ」  助手は好戦的に言いはなった。|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》の装置のしめした圧倒的な力が、彼の野心に大きく影響していた。 「セレウコアやタウも、同じように滅ぼせばいいということか。あきれた発想だな——そんなことをやってのけたならば、|異《い》|邦《ほう》の地のすべてを敵にまわすことになるだろう。この都だけでなく、ほかの地にひっそりと暮らしている同胞たちもふくめて、破滅の道だ」  暗い未来の図をかいま見て、リューは声を落とした。チェルケンやこうした助手たちを放っておき、|不《ぶ》|気《き》|味《み》な力を有している装置が存在するならば、近い将来ありえることではないかと。  ナクシット教団に対しては自己防衛といえる一面もあるが、もし石の装置によって大きな勝利をおさめれば、味をしめる者も現れるだろう。  すでに助手のケラスは、そうした先を楽観的に思いえがいているようだ。 「ケラス殿は何よりもまず、装置の効果を過大評価している」  実際的な面から、キルケスは口添えした。 「ベル・ダウの|山《さん》|麓《ろく》は森林地だったゆえ、|落《らく》|雷《らい》の火が燃えうつって被害が増したのだ。荒れ地や熱原ではたいした効果はないはずだし、ナクシットの聖地についてもまだ、実地で被害を確かめたわけではない」 「もちろん、まだ事態はそこまで進んでない。すべて、仮定の話だ——今後のキルケス殿の研究いかんで、効果のほどは変わると期待しているがな」  そのくらいわかっていると、助手は鼻で笑った。 「すぐ目先の、都を守ることばかりにとらわれていると、足もとをすくわれるぞ」  リューはキルケスにささやいた。 「だからこそ、リューシディク様——|聡《そう》|明《めい》なあなたが都の君主となり、わたくしたちがあやまった道を歩まぬよう、|導《みちび》いていただきたいのです」 「それは無理だ。もしわたしにその気があったとしても、チェルケン一味を|葬《ほうむ》りさらなければできない——反対に、せいぜいわたしが、チェルケンの手の者によって人知れず暗殺されるのが落ちだろう。二度も、リウィウスの名のもとに殺されたくはないな」  まだ聞き耳をたてている助手を無視して、リューは声を低めようともしなかった。 「わたくしが命にかえても、お守りいたします。装置の研究がある以上、チェルケンといえどもわたくしをないがしろにすることはございません。都の人々も、リウィウスの王子が暗殺されたら、黙ってはいませんでしょう」 「では、おまえのおそれていた内乱になるぞ。チェルケンの|傀《かい》|儡《らい》になるより、内乱の一陣営にかつぎあげられるほうがいいとは、とうてい思えないな」 「——どうすればいいのか、いつもあなたの話をお聞きすると|困《こん》|惑《わく》いたします」 「人を利用したりせず、おまえたち自身が考えるといい。たしかに同胞たちが集まっているのかもしれないが、ここはわたしの都ではない、おまえたちが|異《い》|邦《ほう》の地に築きあげた都だ」  リューは冷たくつきはなした。ほかに彼が言うべきことは見つからなかった。  同胞たちの進む道を|危《き》|惧《ぐ》してはいたが、無益な勢力争いにまきこまれるのはいやだった。  しかし彼の意志とはかかわりなく、満月の日には婚礼がとりおこなわれるのは動かしがたい事実だ。  キルケスの素朴な忠誠心にほだされないようにつとめながら、彼はなんとか|逃《のが》れる方法を考えていた。  暗示のわざにたけていた相棒に、もっと予防策でも聞いておくべきだったと思っても、後の祭りである。  それでもさまざまな過去の場面から、彼は相棒のやり方を思いかえし、方策を練っていた。     2章 黒鳥の伝言  焼けただれたベル・ダウの|山《さん》|麓《ろく》|地《ち》|帯《たい》は、セレウコア軍によって|占領《せんりょう》された。  ナクシットの信徒と、その教えに|帰《き》|依《え》していた近隣の村人たちは次々と捕らえられた。しかし、彼らの多くは山火事にまかれ、生きのこった者は半数にも満たなかった。  天変地異としか思えない|落《らく》|雷《らい》と山火事には、彼らもなすすべがなく、ナクシットの名を|唱《とな》えながら地面にひれふすばかりだったという。  燃えくすぶる|瓦《が》|礫《れき》の中から救出された信徒の中には、セレウコアの衛兵を神の御使いと思いこむ者もいて、気味悪がる衛兵から足蹴にされても、熱心にまとわりついた。  戦いらしい戦いもなく、山麓の村を取りもどすことができたセレウコアの|討《とう》|伐《ばつ》|軍《ぐん》は規律がゆるみ、おおっぴらな|掠奪《りゃくだつ》や|虐殺《ぎゃくさつ》もおこなわれた。  各地でセレウコア軍を手こずらせてきたナクシット教団への反感が、ここにきて吹きでたともいえるが、中には明らかにそれが目的で討伐軍に加わった者もいた。  国境の村を占領し、あれほど|頑強《がんきょう》に抵抗しつづけた信徒たちだが、今はその闘志も失われ、ただナクシット神に救いを求めるのみだった。 「では、どうあっても追撃するというのか」  グリフォンはたまりかねて、兵舎となっている民家の机をたたいた。  皇帝より全権をまかされているエラス将軍は、せせら笑った。|歓喜宮《かんききゅう》で、彼の前に|膝《ひざ》をつき、討伐軍の地位を願いでたときの態度とは別人のようだった。 「わがセレウコアの目の上のこぶ[#「こぶ」に傍点]、ナクシット教団を|壊《かい》|滅《めつ》させるには|千《せん》|載《ざい》|一《いち》|遇《ぐう》の機会ではないか——皇帝の許しをえる時間もおしい。早馬もまにあわないゆえ、報告はのちほどおこなえばよい」 「しかし皇帝はあくまで、|威《い》|嚇《かく》のみだと念をおされたはずだ」  立派な|口《くち》|髭《ひげ》をなでる将軍に、グリフォンはくいさがった。  エラス将軍は重臣の子息で、皇帝とも|姻《いん》|戚《せき》関係があり、年は若くても歓喜宮内では力をもっていた。今回の|遠《えん》|征《せい》も並みいる候補者を押しのけ、|強《ごう》|引《いん》にかってでた指揮である。 「全軍の指揮権はわたしにあるのだよ、グリフォール殿下。この忙しいときに耳をかたむけているだけでも、貴殿に対する最大限の敬意だと思ってもらいたいな」 「あくまで原則にのっとった範囲の指揮権だ。追撃はそなたの暴走だ」 「これは妙だな、貴殿はあのいまいましい|邪教《じゃきょう》集団をかばいだてするのか。北の国境をたえずおびやかし、国内でもさまざまな騒ぎをひきおこした|不《ふ》|穏《おん》|分《ぶん》|子《し》どもを」 「かばいはしないが、壊滅させたいとも考えぬ。セレウコアが今日あるのは、どんな人種も民族も、利をもたらすならば受け入れるという、共存共栄の思想があったゆえだ——ベル・ダウに逃げこんだナクシットを追撃すれば、ほかの反乱の火種になろう」 「そういう立派な信念をおもちなら、なぜはじめから討伐軍の指揮をおとりにならなかったのかな。てっきりあなたが行かれるものだと思い、ごいっしょさせてもらう心づもりでいましたよ——勝手気ままに動きまわられ、口だけをおはさみになるとは、いくら皇弟殿下でも虫がよすぎるのではないかな」  エラス将軍は切り札をちらつかせ、この議論を打ちきった。  グリフォンもそのあたりをつかれると強くは言えない。  |威《い》|嚇《かく》のみと念を押した皇帝の命にいっときそむき、戦功にはやる将軍の|狙《ねら》いは明らかだ。  ナクシット教団を|壊《かい》|滅《めつ》させることで、日ごろから連中に反感をつのらせている|都人《みやこびと》や衛兵の人気を獲得し、彼は重臣の地位にのぼるつもりだった。  キルケスが|失《しっ》|踪《そう》したせいで、重臣の|椅《い》|子《す》のひとつが空席のままとなっていた。首尾よくいけば、エラスは最年少でそこに座ることができる。 「——手負いの|獣《けもの》に|噛《か》まれないことを祈る。追撃は容易でないことだけは|覚《かく》|悟《ご》しておくといい」  それを捨てぜりふに、グリフォンは兵舎を出た。  焼けのこった民家のひとつに、グリフォンたち一行は宿をとっていた。  宿場町でさわぎたてた衛兵のクファのせいで、おしのびで来ていたこともむだになり、グリフォンはセレウコア軍と|山《さん》|麓《ろく》で合流することにした。  エラスの指揮する|討《とう》|伐《ばつ》|軍《ぐん》の動きに、彼が黙っていられなくなったせいもあった。 「表情から察するに、説得は功を奏しなかったようですね」  いれたばかりの薬草入りの茶をさしだし、エリアードは言葉をかけた。  このせかせかしたもうひとりの相棒に話しかけるタイミングを、彼は旅のあいだにのみこんでいた。 「まったくだめだ。戦わずして、山麓の村をナクシットから奪いかえした思いがけない大収穫に、欲が出たらしい」  グリフォンは木の椅子に座り、|苛《いら》|立《だ》たしげに足をふみ鳴らした。 「セレウコア軍の関心がナクシットにだけ向いててくれるのは、これからのわたしたちにとっては、のぞましいんじゃないかと思いますけどね」  やんわりエリアードは言った。 「それとこれは別だ——エラスの出世欲のために、ナクシット教団を壊滅させれば、かならずのちのセレウコアに|禍《か》|根《こん》を残す」 「あなたも複雑な方ですね。それほど愛国心などないかと思っていましたが」 「愛国心などではない。セレウコアの基盤がゆるめば、東のタウまでをふくめた大陸の半分をしめる地域の危機となる。ふたたび人種や信教ごとの小国にわかれ、戦乱となるのは、|均《きん》|衡《こう》を何よりも重んじる観相師としてさけねばならない」 「なるほど、説得力はあります」 「それに——ナクシットは|得《え》|体《たい》が知れない。いくら数の上で圧倒しても、けっしてあなどれぬ、何をしかけてくるかわからないところがある、ウィリクもかかわっているゆえ……」  アルルスで、サライの河の上でまみえた|黒魔術師《くろまじゅつし》の名を、グリフォンは|不《ふ》|吉《きつ》の前ぶれのようにつぶやいた。 「〈月の民〉の都については、セレウコア軍にいかなる知識もないわけですね」  同胞をかばうわけではなかったが、エリアードは気になって問いかけた。 「今のところはそうだろう。しかしベル・ダウまで進撃すれば、おのずと知れてしまうにちがいない。聖地に集まっていたナクシットの信徒たちは、その都を滅ぼすべく、進軍の準備をすすめているらしいからな」 「ますますわが同胞たちにとっては、都合がいいわけですね。ナクシットと、それを追ってきたセレウコアが戦っているあいだに、両者を|葬《ほうむ》ってしまえばいいのだから——実際、エラス将軍をけしかけているのが、わが同胞の手の者ではないかと思うほどですよ」  |山《さん》|麓《ろく》に|雷《かみなり》を落としたわざから考えて、エリアードとしてみればまんざら冗談を言ったつもりはなかったが、グリフォンは大きな眼で彼をにらみつけてきた。 「あなたこそ、愛国心に目覚めたのではないか。〈月の民〉がナクシットのみならず、セレウコアまでも滅ぼすのを、内心では望んでいるように受けとれるが」 「望んではいませんが、無理にとめようとは思いませんよ。今のところ、〈月の民〉は攻められる側で、正当防衛ですからね。いくら|異《い》|邦《ほう》の民とはいえ、ベル・ダウの山奥でひっそりと暮らしていくぐらいのことは許されるべきでしょう——ナクシットの予言か何かは知らないが、〈月の民〉をすべて|抹《まっ》|殺《さつ》すべきだという考え方じたいがまちがいです。いったいわが同胞たちが、ナクシット教団に何をしたのかと問いたい」  何度も殺されかけた|恨《うら》みをこめ、エリアードはつぶやいた。 「狂信の徒というものは、そうしたものだ。あがめる神の名を借りて命じれば、なぜかと問うこともなく盲目的に従う——上層部にはちゃんとした|思《おも》|惑《わく》があるのだろうが、多くの信徒たちは抹殺すべき対象がどのようなものかも、はっきりとは知らされていまい」  にぎやかな声が近づいてきて、グリフォンは黙った。 「帰ったわよォ」 「早く、戸をあけなったら、たいへんな荷物なんだよ」  |鍵《かぎ》をはずすと、買い出しを終えたイェシルとアヤが、荷物を背負ってなだれこんでくる。  エリアードが木の|扉《とびら》をしめようとしたところ、黒い矢のようなものが、ひらいた|隙《すき》|間《ま》から飛びこんできた。  グリフォンは愛用の長剣を抜いたが、それは矢ではなく細長いくちばしをした小さな鳥だった。  よく見ると、鳥の脚には使者のしるしである白い布きれが結びつけられている。  黒い鳥は|天井《てんじょう》を|旋《せん》|回《かい》し、くわえていた巻き紙のようなものを落とした。  グリフォンがそれを取ると、鳥はまっすぐ、もと来たところから飛びさっていった。 「よく訓練されていますね」  |使《つか》い|魔《ま》のたぐいかと思い、身を|伏《ふ》せていたエリアードは、感心したように|扉《とびら》を見つめた。 「なんなの、今のは、いったい」  とっさに彼のそばへ駆けよったイェシルが尋ねた。 「おそらくあれを運んできたのですよ」  グリフォンがひろげて読んでいる厚い紙を、エリアードは目でしめした。  あいかわらず他人行儀で、ていねいな言い方に、イェシルは|唇《くちびる》をとがらした。 「あの趣味の悪いやり方からいって、グリフォン殿のお友だちにまちがいなさそうね」  それが聞こえて、グリフォンは彼女を渋い顔でちらと見た。エリアードとふたりのときは|饒舌《じょうぜつ》な彼も、|苦《にが》|手《て》なイェシルの前では言いたいことものみこんでいるようだった。 「何が書いてあったのですか」  エリアードが立ちあがると、イェシルもあたりまえのようについてきた。 「——話しあいの申し入れだ、わたしあての」  小声でグリフォンはつぶやく。 「どなたからの?」 「ウィリクからだ、ナクシット教団の|中枢《ちゅうすう》にいる|魔術師《まじゅつし》で、もと修行仲間の……」  イェシルの|嫌《いや》|味《み》はあたっていた。好奇心からのぞきこんできた彼女に、グリフォンは細かい式や数値で埋まった紙を見せた。  まだ何か言いたそうだったイェシルも、それには黙った。 「近くに来ているわけですか」  エリアードは|眉《まゆ》を寄せた。 「いや、ベル・ダウの奥地にいるはずだ。ここに記された|座標《ざひょう》の位置から考えて——しかし、ここがよくわかったものだ」  ナクシット教団にからんだことが起こるたびに、グリフォンはかつての修行仲間たちを思い出していた。シェクの分教所で再会したヤイラスと、サライの河にのまれたかにみえたウィリクの姉弟を。  公然と敵にまわった相手のはずだが、グリフォンはまだ複雑な気持ちだった。  白い真四角の布を、グリフォンは|天井《てんじょう》に|吊《つ》るした。|山《さん》|麓《ろく》の大きな|市《いち》に出かけて、イェシルとアヤが買いこんできたもののひとつである。  ベル・ダウ越えのために、|糧食《りょうしょく》や必要なものをそろえてきたのだが、その布はグリフォンが別に頼んだものだ。 「|偵《てい》|察《さつ》|用《よう》に使ってみるつもりが、こんなところでさっそく役に立つとはな」  みずからの準備のよさを誇るように、グリフォンはひとりでつぶやいていた。  買いに行かされたアヤは、荷物が重かったと文句をつけていたが、黒魔術の道具らしいとわかり、|興味津々《きょうみしんしん》で彼のやることを見守っていた。  けれど布を吊るしおわり、|携《けい》|帯《たい》|用《よう》の観相板を卓の上に設置すると、アヤは追いだされた。  せっかくグリフォンを見なおしかけていたところだったので、アヤは腹をたてた。見なおしかけた理由というのが、手品のたぐいを彼女が大好きだというものなので、グリフォンに伝わらなかったのは幸いといえた。  |扉《とびら》の外では、イェシルが衛兵の任務についていた。しばらくのあいだ、彼らの宿舎に近づく者を追いかえすのが彼女の仕事だ。  グリフォンの一方的な命令には反発したが、素養のない者が同席すると場合によっては生命にかかわるとおどされて、見張りを引きうけさせられた。いちおうは衛兵として|雇《やと》われた形なので、たまには仕事をしようかと、彼女は番兵をつとめていた。  |邪《じゃ》|魔《ま》な家具をかたづけた室内で、グリフォンと、助手役のエリアードは向かいあうように立っていた。  明かりは、|吊《つ》るされた布と観相板のあいだにすえられた|蝋《ろう》|燭《そく》がひとつきりだったが、特殊な粉をふりかけられ、暖炉の|炎《ほのお》のように激しく燃えあがっている。 「炎の具合に気をつけてくれ」  グリフォンはそう命じて、計算ずみのいくつかの数値を観相板にはめこんでいった。  黒い鳥が運んできた紙に記されていた定数を、ドゥーリスで修行した高位の|魔術師《まじゅつし》にしかわからない特殊な公式ではじきだしたものである。  もしほかの者の手にわたっても、意味不明の数字の|羅《ら》|列《れつ》でしかなく、暗号のような役割もはたしていた。  彼の考案した観相板には細かい|升《ます》|目《め》と、色をつけた目盛りのようなものが刻まれている。  合成した宝石を先につけた細長いまじない棒で、数値のしめす位置を押していくと、観相板は小さくうなりをあげて作動しはじめた。  やがて相対する白い幕には、細かい点のようなものがうかびあがった。  点はゆらぎながら|凝集《ぎょうしゅう》し、ゆがんだ人の影となる。  黒魔術では|像《ぞう》|喚《かん》|起《き》と呼ばれるわざのひとつで、場所を正確に指定し、対象物が静止状態であれば、遠く離れたところのものを幕に映しだすことができた。  対象となる相手が腕のある魔術師で、同じわざをこちらに対しておこなえば、言葉をやりとりすることも可能だった。  幕に映しだされた影は、|抑《よく》|揚《よう》のない|呪《じゅ》|文《もん》のようなものをつぶやいていた。ドゥーリスで用いられている特殊な言語で、こうしてわざを交換するときの|挨《あい》|拶《さつ》がわりにかわされるものである。  グリフォンも同じように挨拶を返した。その発音や言葉の並べ方で、彼らはお互いを確認しあった。 「用件はなんだ、ウィリク——こうして敵同然のわたしに話しあいを申し入れるとは、よほどのことと察するが」  先にグリフォンは切りだした。 「……この数日、君の居場所を捜しまわったぞ。何度、使いの鳥を放ったことか……やっと、つかまえられたな」  低いくぐもった声が、観相板から伝わってきた。 「今さら、そこまでしてわたしを捜すのは、いかなるわけだ。アルルスや、サライ河でまみえたときには、こちらの話にすら聞く耳をもたない様子だったが」 「かつては、同じ学びやですごした友ではないか。いや、今も立場こそ違え、高位の魔術師どうしであることには変わりない」  幕の影は次第に顔形がわかるようになり、アルルスの分教所で見かけた、若い小柄な魔術師の姿となった。 「なるほど、|魔術師《まじゅつし》どうしは、国・人種の|枠《わく》にとらわれず、それを超越して連帯せよという|掟《おきて》はたしかにあるが——そなたはギルドを脱退したのではなかったのか」 「脱退は、やむをえずしたことだ。民衆を|扇《せん》|動《どう》するきらいのある団体、あるいは|唯《ゆい》|一《いつ》|神《しん》をのみ信じる宗教には|加《か》|担《たん》してはならない、という掟を破ることになったゆえ」 「不本意にもギルドは脱退したが、魔術師としての立場は変わっていないというわけか——都合のいい理屈だが、旧友のよしみとして話を聞こう」  グリフォンとしてはめずらしく議論を打ちきり、先をうながした。 「君にはおおかた、想像がついている様子だな」  影はゆらぎ、|陰《いん》|鬱《うつ》な笑い声が伝わってきた。 「当たってなければいいと、なかば思ってはいるが、想像がついているといえばそうかもしれぬ」 「おそらく、君の想像どおりだろう。こうなってはもう遅いかもしれないが、君の助けが必要だ、われらを|憐《あわ》れんでほしいのだ——われらの聖地のありさまを見てくれ」  ウィリクの影の向こうに、|炎《ほのお》のようなものが見えかくれした。  ときどき映っては消える光景は、ベル・ダウの|山《さん》|麓《ろく》を思わせる焼けただれた|廃《はい》|墟《きょ》と化していた。 「ナクシットの聖地にも、|落《らく》|雷《らい》していたのか、山麓の村を焼いたように……」  目を細め、グリフォンはつぶやいた。 「数度にわたり、われらの聖地は攻撃を受けたのだ。落雷というよりは、光の大きなつぶて[#「つぶて」に傍点]が、ふいに空から落ちてきたという光景だった——ドゥーリスで修行し、常ならぬ力をいやというほど見てきたつもりのわたしですら、恐ろしくて正視できなかったほどのすさまじさだった」 「山麓の村のみならず、次はナクシットの聖地を|狙《ねら》ったということか」 「連中の狙いは正確だ。おそらく、きわめて優秀な魔術師がついていて、聖地の位置を割りだしたのだろう——出陣の準備をしていた東の|砦《とりで》と、居住区の半分をやられた。消火作業で貴重な水を費やしてしまい、来春の雪どけまで水源はもたない」  |声《こわ》|音《ね》は落ちついていたが、ウィリクの影は震えていた。 「ナクシット教団は、攻撃してきた相手や、その方法をどこまで知っているのかな」  慎重にグリフォンは応じた。 「唯一なるナクシットの予言は正しかったのだ。着々とセレウコアや、ベル・ダウの北に勢力をのばしつつあったわれらに、あの恐ろしい予言は、|巫《み》|女《こ》を通じて告げられた——半年たらずのうちに、われらは|異《い》|邦《ほう》より来た|邪《じゃ》|悪《あく》な〈月の民〉によって滅ぼされるだろうと」 「その予言のことは、ヤイラスから聞いていた。シェクの町で、わたしの同行者たちを害そうとしたのは、予言に刺激された信徒たちのしわざだという弁明とともに」 「姉と会ったのか——いつ、どこでだ?」  双子の姉の名に、ウィリクの声の調子が変わった。 「シェクの分教所で、ついひと月ほど前にだ——ドゥーリスで別れて以来の再会だった」  つとめて冷静にグリフォンはこたえる。 「そうか、シェクにいたのか、近くにいたのだな」 「ヤイラスも、そなたがどこで何をしているか、まったく知らないと言っていたな」 「互いに重要な使命を負っているゆえ、姉とはもうずっと会ってない。今もどこでどうしているか、わからない——この|無《む》|惨《ざん》な聖地にいないことだけは確かだ」 「そなたの使命とは、わたしの同行者たちを|抹《まっ》|殺《さつ》することだったのだろう、|邪《じゃ》|魔《ま》をするわたしもいっしょに」  グリフォンは話をもとにもどした。 「抹殺しようとまでは考えてなかった、行く手を|阻《はば》もうとはしていたが——われらとて、予言に|怯《おび》えていたのだ。さまざまなやり方で手を尽くしたが、力およばず、こうした|酷《むご》い形で予言は|成就《じょうじゅ》されようとしている」 「すべては予言のせいだというならば、そなたたちがこうなったのもナクシット神のおぼしめしではないのか。そなたたちの神が滅びを|示《し》|唆《さ》したのだ、予言された運命にさからおうとするのはナクシットの意向に反するかと思うが」  あまりに虫のいい論法だと、グリフォンの口調は冷ややかになった。 「運命にもせいいっぱいの抵抗をすることが、ナクシットの|御心《みこころ》にかなうことだとわたしは信じている」  ウィリクの少年のように細い肩は、背後に見える|炎《ほのお》の影とともにゆらいだ。 「以前から考えていたが、ナクシット教団は、狂信の徒のようにみえてもそれは下のほうだけで、そなたたち上の者は意外と論理をあやつるのがうまい。|世《せ》|俗《ぞく》|的《てき》な力にも関心があるようだ——もっともそうでなければ、各地に分教所をもうけ、セレウコアの国境をおびやかすほどの発展はのぞめないだろう。  予言に|怯《おび》えていたから、〈月の民〉に連なる者を抹殺しようとしたとはいわせぬ。そなたたち教団の上層部は、ベル・ダウの奥地にある緑の|沃《よく》|土《ど》を欲していたのだ。目ざわりな|異《い》|邦《ほう》の民を|駆《く》|逐《ちく》し、その地を新たな教団の聖地にしようともくろんだゆえ、あえて|不《ふ》|吉《きつ》な予言とやらを広めたのだ。  もしそなたたちが本当にその予言に怯えていたとしたら、信徒たちに広め、わざわざ不安をかきたてるような|真《ま》|似《ね》はしなかったはずだ。信徒たちを各地から呼びよせもしなかっただろう——ちがっているか、ウィリク」  グリフォンの|鋭《するど》い|舌《ぜっ》|鋒《ぽう》に、ひとときの沈黙がおとずれた。  幕に映った景色の中では、今も炎が激しく燃えていたが、その音までは伝わってこなかった。 「……では君も、セレウコア軍と同様に、われらの|壊《かい》|滅《めつ》を望んでいるのか、どこからも中立であるはずの君が」  高位の観相師としての誇りにうったえるのが、ウィリクの話しあいの最後の手段だった。 「壊滅を望んではいない。が、わざわざ労力を費やして、みずからの手で救ってやろうとも思っていないだけだ」  グリフォンは顔をゆがめた。ついさきほどのエラス将軍との不快なやりとりもよみがえってきた。 「たえず公平と大局の視点をもち、国なり民族なりの争いに関しては、|均《きん》|衡《こう》を心がけるべく力を尽くす——君はギルドに属する高位の者だ、こうした|掟《おきて》をわたしがくりかえす必要もあるまい。ドゥーリスの学びやでは、姉と君とわたしで、よくギルドの条文を暗唱しあっただろう」 「ギルドの掟を破った|魔術師《まじゅつし》が、二十八の条文を|駆《く》|使《し》し、ふりかざすとはおかしなものだな。わたしですら、すでに忘れている項目もあるぞ」  |皮《ひ》|肉《にく》にグリフォンはこたえたが、ドゥーリスでのなつかしい記憶はいやおうなく彼を|刺《し》|激《げき》した。 「われらを救うことは、すなわち均衡を保つことだ。ギルドの掟によらなくても、あの|得《え》|体《たい》の知れない力は、|異《い》|邦《ほう》の者どもの意のままにさせておいてはならない、そうではないか」 「得体は知れなくない。わたしにはあれのからくり[#「からくり」に傍点]もわかっているし、力の性質も見当がついている」 「君は優秀な観相師だ。それゆえ、こうして君に頭をさげ、救ってくれと頼むのだ——わかっていることを教えてくれとはいわぬ。君は昔から、自分の研究成果を、相手が直接の師であっても、けっして教えようとはしなかったからな。今のわたしなどにもらすことはありえない」  いかにも|吝嗇《りんしょく》で、心が|狭《せま》いといわれているようで、グリフォンはいやな顔をした。たしかにドゥーリスで修行していたころの彼には、そうしたところがあった。 「ならば、わたしにどう救えと頼むのだ」 「君たちはこれから、|邪《じゃ》|悪《あく》なる〈月の民〉の|根《ね》|城《じろ》に向かうのだろう。ごまかさなくてもいい。セレウコアの軍にも、われらの目と耳は入りこんでいるのだ——われらが壊滅する前に、そなたの手であの得体の知れない力の|源《みなもと》を断ってほしいのだ。あれは放置してはならないものだ。君はそう考えているにちがいない——もうひとつ、できればこうしてまた、わたしと連絡を取って状況を知らせてほしいが」  あくまでしぶとく、ウィリクは頼みこんだ。 「わたしにナクシットの|間諜《かんちょう》をつとめろというのか」  グリフォンは|気《け》|色《しき》ばんだが、頼みの前半の部分はすでに、彼がひそかに検討していたことだった。  |月《げつ》|炎《えん》|石《せき》の力に興味はつきないが、ナクシット教団ほどの勢力を|壊《かい》|滅《めつ》できるものであれば、放置しておくのは危険であると。 「|間諜《かんちょう》とまではいわない、ひとつの同じ目的のために共同戦線を張ろうという提案だ。どのみち、われわれには抵抗する力も残っていない」  相手の内心の迷いを見こしたように、ウィリクはつづけた。 「わたしのためにやってくれとは頼まない。ヤイラスのためでもあると、考えてはもらえないか。姉はいっとき、君のために信仰を捨てようかとまで思い悩んでいたのだ。われらは信徒以外の者と結ばれることを固く禁じられているゆえ」 「こんなときになって、昔のことをもちだすのは|卑怯《ひきょう》だぞ。道はすでにわかたれたのだ」  こぶしを握りしめ、グリフォンは一歩踏みだした。 「では共同戦線とはいわない、単独でやってくれ。中立と|均《きん》|衡《こう》の原則からいっても、〈月の民〉の力の突出は、君にとって無視できないもののはずだ——感情に流されず、高位の観相師としてのぞましい道を歩んでくれるよう、かつての修行仲間として、姉のぶんまでせつに願っているよ」  最後にウィリクは笑みをもらし、軽く一礼した。  それから彼は、グリフォンに昔を思い出させるよう、ドゥーリスの特殊な別れの言葉をつけ加えた。  それが届くか届かないかのうちに、幕に映った像は薄らぎ、ウィリクの小柄な姿は遠のいていった。  |蝋《ろう》|燭《そく》の|炎《ほのお》だけがゆらぐ幕を、グリフォンはしばらく見つめていた。 「——窓をあけましょうか」  黙ってひかえていたエリアードはやわらかく声をかけた。 「ああ、そうしてくれ」  われにかえったかのように、グリフォンはこたえた。 「あなたは——その装置とやらを封じるために、わが同胞たちの都におもむくつもりなのですね。そうではないかと見当はつけていましたが」  |窓《まど》|枠《わく》に手をかけたまま、エリアードはふりかえった。 「反対するのか、〈月の民〉のひとりとして」 「いいえ、わたしは相棒が無事にもどりさえすれば、ほかのことにかかわる気はありませんよ」 「そうかな、暗に非難されているように感じられるが——装置が存在するかぎり、リューシディク殿は利用価値があると|狙《ねら》われることになるぞ」 「おそらく、|二《に》|律《りつ》|背《はい》|反《はん》というのはこういうことなのでしょうね」  そう結んで、エリアードは窓をあけはなった。  明るい陽光と、砂まじりの風が吹きこんできて、蝋燭の炎はかき消された。     3章 月の婚礼  婚礼の当日になって、リューは閉じこめられていた部屋から出ることを許された。念入りに暗示をかけられ、|婚《こん》|約《やく》|披《ひ》|露《ろう》のときと同様、人形同然にされてからのことである。  しかし同じように暗示をかけられてはいても、前ほどききめはなかった。身体は自由にならなかったが、しばらくするとまわりの様子を見聞きするくらいの意識はもどってきた。  いろいろ彼は方策を練った末、以前に暗示のわざを得意とする|女魔術師《おんなまじゅつし》によって相棒ともども捕らわれたとき、用いた手段をこころみることにした。 (いったん暗示にかかってしまえば、それが切れるまで、二度め以降の暗示にはかからない)  かつてエリアードはそう言い、自分自身に暗示をかけ、女のわざをかわした。  相棒のように暗示のわざを使うことはできないが、|自《じ》|己《こ》|催《さい》|眠《みん》に近い状態なら、なんとか彼でも可能だ。  |牢《ろう》|獄《ごく》同然の部屋の中で、彼は少しずつ訓練していった。ほかにやることもないので、ひまつぶしにも最適だった。  まずは頭に思いうかぶことだけに集中し、まわりの様子を忘れるようにする練習からはじめた。見張りたちには昼寝でもしているように見せかけ、寝台の|脇《わき》の壁をにらんで、しんぼう強く彼はくりかえした。  そのまま本当に眠ってしまうこともあったが、短いあいだだけなら催眠状態になることもできるようになった。  婚礼の日の朝、チェルケンがやってきて、術をほどこそうとしたときも、その同じ状態にもっていけるようやってみた。  わざは強力で、いつもよりも念が入っていて、思うようにはいかなかったが、以前の無防備なときよりはかなりましだった。  どれくらいたったのか。意識をとりもどしたときにはすでに、リューは婚礼用の金と純白の衣装を着せられ、小さめの金の|冠《かんむり》をかぶせられて、神殿の聖堂に立っていた。  それより前の意識はなく、部屋を出てしばらくはいつものようにチェルケンのあやつり人形だったらしい。そのあいだにしたことは何も覚えていなかった。  青と銀につつまれた神官衣の人物が、正面で儀礼の決まり文句を|唱《とな》えている。  婚礼の儀式は着実に進行しているらしいが、まだ身体の自由がきかない彼にはどうすることもできなかった。逃げだすどころか、首をめぐらしてまわりの様子をうかがうことすらままならない。  背後の礼拝場には、都の代表者たちが列席しているようだ。静まりかえっていても、大勢の人の|気《け》|配《はい》のようなものが伝わってくる。  隣には、おぼろげな記憶のはしばしにかいま見た銀色の|乙《おと》|女《め》が寄りそっていた。  この乙女がラウスターの王女で、花嫁にちがいなく、彼は横目で観察していた。  乙女は|清《せい》|楚《そ》で、|可《か》|憐《れん》な美しさがあった。十五歳か十六歳か、まだほんの少女のようにもみえたが、|丈《たけ》なす白銀の髪を後光のように輝かせた表情は神秘的で、老いた|巫《み》|女《こ》のような|翳《かげ》りもある。  同じ銀髪でも、彼の相棒よりずっと色あいが淡く、光のかげんでは新雪の斜面のようにもみえた。  ときどき乙女は、恥ずかしそうに彼を見あげた。  目の前の神官にうながされ、乙女は彼の手を取り、向かいあうような形となった。人形同然の彼はただ、つっ立っていればいいらしい。  神官はふたりに祝福を与え、儀式はとどこおりなく終了したようだ。|誓《せい》|約《やく》の言葉も、この相手と|婚《こん》|姻《いん》をかわすかどうかの形式的な問答もなかった。  リウィウスにいたときも、婚礼の儀などほとんど立ちあったことのないリューだったが、こんな式があるとは思えなかった。あるいは彼の意識がなかったときに、そうした手順がふまれたのかもしれない。  これで隣の見知らぬ乙女を|娶《めと》ったことになるのだろうかと、彼は|暗《あん》|澹《たん》たる思いにかられた。  |歓喜宮《かんききゅう》で皇帝の|従妹《い と こ》との縁談をすすめられたときには、誰とも結婚などする気はないと断言した彼だったが、同胞たちに強制されることになるとは思いもよらなかった。  彼が意志を奪われているとは、チェルケンの|陰《いん》|謀《ぼう》にかかわっていない者はわからないだろう。この聖堂にいるほとんどの者も知らないにちがいない。  はたから見れば、ラウスターの王女とはつりあいのとれた申しぶんのない組みあわせであり、彼が自分からすすんで婚礼にのぞんでいると思われても無理はない。  相棒がどこかでこれを聞いたら、どう思うだろうかという不安もある。  日ごろの行動が|誉《ほ》められたものじゃないだけに、彼が女にほだされて結婚する気になったと誤解されるかもしれない。おそらく相棒は今ごろ、グリフォンや|女泥棒《おんなどろぼう》といっしょに彼の|行《ゆく》|方《え》を捜しているだろう。  今のうちになんとかしなくてはと、彼は身体の自由をとりもどす方法を|模《も》|索《さく》しはじめた。  婚礼の儀を終えたふたりは、豪華な|輿《こし》に乗せられ、神殿を出た。  神殿前のささやかな広場から、大通りにかけては、ふたりをひと目見ようと集まってきた|都人《みやこびと》たちで埋まっていた。  小宮殿の|露台《バルコニー》から婚約を|披《ひ》|露《ろう》したときも都はわきかえったが、今日はまた格別の盛りあがりをみせていた。  青い石の都が薄青の空に溶けこんでいくかのような、快晴のうるわしい日だった。  チェルケンの配下の神官たちが儀礼用に飾った馬で進みでて、行進のための道をあけさせた。神殿の儀式に列席した有力者たちもそれに協力し、大通りの要所に|綱《つな》を張った。  おおむね|都人《みやこびと》はおとなしく従った。  しかし輝かしい|輿《こし》が姿を現すと、|怒《ど》|濤《とう》のような歓声がわきあがり、熱狂のあまり通りへと押しよせる者もいた。  列の先頭近くにいたチェルケンが手で合図すると、馬上の神官たちが|居《い》|丈《たけ》|高《だか》にそんな者たちを|蹴《け》|散《ち》らした。 「おかげんはいかがですか……リューシディク様」  聞こえるか聞こえないかくらいの声で、セナ=ユリアはささやいた。行進のための輿に乗りこみ、周囲を取りまいていた人々から、ほんのいっときだけ離れたときである。  リューは何かこたえようと思ったが、|唇《くちびる》がわずかにふるえただけだった。それでも婚礼の儀式のときにくらべれば、かなり身体の自由がもどってきていた。  セナ=ユリアは彼を見あげ、そのわななきと|眼《まな》|差《ざ》しの変化に気づき、喜んだ。これまでの人形同然の彼とはちがい、彼女の言葉が確かにとどいているようだと。 「ずっとご病気で|伏《ふ》せってらっしゃると聞いておりましたわ……今日やっと、お元気そうなお姿を見ることができて、ほっとしていたのですけれど……」  勇気を出して、セナ=ユリアは告げた。保護者のチェルケンに正面からさからって以来、勇気をふるうことはそれほどむずかしくなくなっていた。  しばらく|懲《こ》らしめのために閉じこめられ、|折《せっ》|檻《かん》を受けたが、彼女の中に芽生えた意志はそこなわれていなかった。 「……な……う……そ」  長いあいだかかって、リューはつぶやいた。みんな|嘘《うそ》だと言いたかったが、言葉になったのはかろうじてそれだけだ。 「え、なんておっしゃったの?」  首をひねり、セナ=ユリアはのびあがった。しかし輿の中は|狭《せま》く、彼のほうに身を寄せるような形になるので、彼女は恥じらい、うつむいた。  あらためてリューは、すぐ横の花嫁を見つめた。彼女の態度や口ぶりからして、チェルケンの片棒をかついでいるわけではないらしい。  それどころか、彼が暗示によってがんじがらめになっていることも知らないようだ。けれど何か妙だとは感じとっているらしい。  輿は数人の神官にかつぎあげられ、ベル・ダウに生息する小形の馬が引く台車に乗せられた。  |輿《こし》には黄金造りの|天《てん》|蓋《がい》がつき、薄い垂れ幕が|枠《わく》と枠のあいだをおおっていた。中のふたりの姿は、垂れ幕の|隙《すき》|間《ま》からかいま見えるだけである。  神殿から|都人《みやこびと》の待つ大通りへと、婚礼をあげたばかりの|高《こう》|貴《き》なふたりの輿は運ばれていった。  青い長衣の神官たちが、その前後を護衛するように整然とした列をなし、ゆっくりと進んでいく。  チェルケンは大神官の正装姿で、もっとも立派な飾りをつけた馬にまたがり、馬列の先頭にいた。この行列の主役は王族のふたりではなく、チェルケンであることを無言のうちにしめしたいかのように、いちばん前を堂々と歩んでいった。  垂れ幕のあいだから、リューはそんなチェルケンのうしろ姿や、大通りにひしめきあう都人の様子をながめていた。  満足に口もきけない彼にできることは、まわりをじっくりと観察することくらいだ。その光景の中に何か、暗示の効果をやわらげるものが見つかるかもしれなかった。  以前は、すぐそばにいた|乙《おと》|女《め》の銀髪がきっかけになり、意識が目覚めた。しかし今度はいくらセナ=ユリアを見つめても、思うようにならなかった。  大通りにはいると、セナ=ユリアはもう彼を見ようとはせず、王族らしく|毅《き》|然《ぜん》とした|面《おも》|持《も》ちで座っていた。  都人の目を意識して、彼女はわずかなほほえみをうかべている。暗示をかけられているリューよりも人形のような、生気のない表情だった。  人々の祝福の声が、輿のリューのもとにもとどいた。  山間に咲くあざやかな大輪の花が投げられ、ふたりの名が呼ばれた。  セナ=ユリアがときどき垂れ幕ごしに手をふると、それが見える位置にいた者たちはひときわ声を高めた。  昔から王女として、神殿の|巫《み》|女《こ》としてなじんでいるだけあり、セナ=ユリアの名を呼ぶ者のほうが圧倒的に多かった。  それでもリウィウス人なのか、熱狂的にリューをたたえる声もまじっていた。  通りをうめつくす同胞たちと、正式な名の|連《れん》|呼《こ》に、彼はいやおうなく過去の光景に引きもどされた。  彼には|正嫡《せいちゃく》の兄ふたりと、大勢の|庶出《しょしゅつ》の弟妹たちがいた。しかし都の行事などで民衆の前に出ると、いくたびかの国境争いに戦勝をもたらした年若い将である彼に人気が集まりがちだった。  兄たちはそれぞれ有力な重臣のうしろ|盾《だて》を得ていたが、王宮内で遊びくらしていたせいで評判は悪かった。  そんなことからも彼は兄や重臣たちに|妬《ねた》まれ、うとんじられて、次々とむちゃな戦いに狩りだされた。王は病弱で実質的になんの力もなかったので、国政は彼らの思うがままだった。  すべては|砕《くだ》け散った地の、忘れていた光景である。  この地に来て、気ままに放浪の旅をつづけているうちに、夢の中でしか思い出さなくなっていた遠い記憶だ。  過去のそうした記憶を|嫌《けん》|悪《お》していたリューだったが、今は思いがけない|郷愁《きょうしゅう》にひきずられた。それほどに彼の名を呼び、たたえる|都人《みやこびと》の声は純粋で、熱のこもったものだった。  |異《い》|邦《ほう》の地に散らばり、ふたたび同胞の都を築いた者たちの心からの喜びが、ラウスターとリウィウスの|象徴《しょうちょう》である|高《こう》|貴《き》なふたりに向けられていた。  チェルケンの|陰《いん》|謀《ぼう》によってまつりあげられたものであっても、婚礼を祝うために集まってきた人々の思いは真実だ。  それはキルケスの説得の中にもあり、彼にも理屈としてはわかっていた。  しかしまのあたりにしてみると、人々の|歓《かん》|呼《こ》は彼をゆりうごかした。身体が自由になったら、セナ=ユリアのように手をふってこたえたかもしれないと思うほどに。  いっときの感傷であり、衝動にすぎないのはわかっていた。このときだけは彼も、暗示にかかっていることを感謝した。  都と呼んではいても、まだその名にふさわしい形は成していない青い石づくりの街路に人々はあふれていた。  |淡《あわ》き髪と青白き|肌《はだ》の同胞たち、失われた第三の月からさまざまなやり方でこの|異《い》|邦《ほう》の地に降りたった者たちが。  神殿から都の中央部につづく大通りだけは平らな石がしかれ、遊牧民の小屋よりはましな建物がならんでいたが、その周囲はまだ山あいの小さな隠れ里にすぎなかった。  しかし集まってきた者たちは、大国の君主の婚礼を祝うかのように行列を迎えている。  かの地の古い|高《こう》|貴《き》な血筋につらなるふたりが結ばれることによって、彼らは同胞の|絆《きずな》を確かめあうことができ、セレウコアのような大国とも精神的に対等な位置に立つことができる。  ふたりを都の精神的な|礎《いしずえ》としたチェルケンのやり方は、そんなふうにうまく働いていた。  さらわれてきてひと月ほどたっているが、リューにとっては初めてまともに見る同胞たちの都の光景だった。  自分でも驚くほどの|郷愁《きょうしゅう》と、澄んだ空にはえる青い都の美しいながめに、彼はすっかり気持ちを奪われていた。身体が思うように動かないのも気にならなくなっていた。  祝いの行列が通りの中ほどまで来たところだった。群衆の中から、いきなり|輿《こし》のほうへ飛び出してきた者がいた。  まだ若い女で、灰色の|頭《ず》|巾《きん》をかぶり、長い|外《がい》|套《とう》をはおっていた。喜びに感きわまって、|輿《こし》のふたりをもっと近くで見ようとでもしたようなやり方だった。  近くにいた神官たちが押しとどめようとしたが、若い女ということで油断もあったようだ。  外套の下に隠しもっていた細身の剣で、ふたりの神官が血祭りにあがった。訓練をつんだかのような、見事な腕だった。 「ナクシットの|御《み》|名《な》のもとに、|邪《じゃ》|悪《あく》な〈月の民〉の君主を|成《せい》|敗《ばい》する——!」  女はそう叫び、輿の垂れ幕に突進し、中のふたりめがけて剣を突きたてた。  まわりの神官たちも、女のすばやい動きをとめられなかった。  暗示をかけられてなかったら、せまい輿の中とはいえ、リューはたやすくよけられただろう。女の動きは垂れ幕ごしに見えたが、彼はわずかに身体をずらすことしかできなかった。  細い剣先が幕をつきやぶり、彼の左の上腕部にとどいた。 「リューシディク様、ああっ」  みずからすすんで剣を受けたような彼に、セナ=ユリアは悲鳴をあげた。  垂れ幕のはしと、輿のやわらかな背もたれがみるみるうちに赤く染まった。 「大丈夫……たいしたことはない」  リューは青ざめて叫ぶ花嫁に告げた。腕の痛みによって暗示からときはなたれたことに、彼は口をきいてみてから気づいた。  まともに彼から話しかけられたのは初めてだったので、セナ=ユリアはいっそう驚いていた。  神官のひとりが垂れ幕をあげると、彼はもとのように暗示をかけられたままのふりをした。  セナ=ユリアが腕の傷を|縛《しば》り、止血するのを、彼は何もおこらなかったかのようにながめていた。  暗示のなごりなのか、神経が完全に目覚めてなく、痛みはいつもの半分ほどにしか伝わってこない。傷も浅く、かろうじて身体をずらしたのが幸いした。  |刺《し》|客《かく》の女は、|輿《こし》の横で神官たちに取りおさえられていた。  行列はとまり、恐慌におちいりかけた人々を、チェルケンやキルケスが馬上から懸命になだめていた。 「滅びよ、〈月の民〉よ、この地より消え失せるのだ——偉大なるナクシットはそう命じられた——われらの聖なる地から、|邪《じゃ》|悪《あく》なる|異《い》|邦《ほう》の民を永久に追放せよと」  女はまだ、きれぎれにわめいていた。あいまにナクシット神の祈りの文句をつぶやきながら。 「ナクシットの|御《み》|名《な》にかけて、われは正義の|刃《やいば》をふるったのだ——これは警告だ、いっこくも早くこの地から去れ、去るんだ」 「殺せ——!」  ひとりがそう言い出すと、合唱するようにひろがりだした。 「その女を、殺してしまえ!」  ナクシット教団が〈月の民〉を敵視しているのは知られていたが、こんなふうに大勢の前で叫ばれると、人々の反感と|憎《ぞう》|悪《お》はいやがおうでも高まった。  このナクシットの女は婚礼の喜びに水をさしたばかりか、敬愛する王族に剣をふるったのである。  チェルケンは馬から降り、石の|床《ゆか》に|這《は》いつくばらせたナクシットの女のもとに歩みよった。 「わが神の御もとに——」  神官の手をはらい、指輪にしのばせた毒のようなものをあおろうとした女を、チェルケンは蹴りあげた。 「愚かな|邪教《じゃきょう》の徒よ、失せるのはそのほうよ」  チェルケンは女をかがんでのぞきこみ、指先でその|額《ひたい》を打ちすえた。さらに小さく文句を|唱《とな》えると、女は白眼をむいて路上にころがった。  実際にはまだ死んではいなかったが、大通りの|都人《みやこびと》には息絶えたかのようにみえた。  女がその場で|裁《さば》きを受けたことに、人々はまた歓声をあげた。今度は|輿《こし》のふたりではなく、神殿の主人であるラウスターの|老魔術師《ろうまじゅつし》のほうに。  行列の先頭にいたチェルケンは、騒動のあいだずっと落ちつきはらっていた。いかにしてナクシット教団の女が青き都をたずねあて、都人の中にまぎれこんだのかを問うこともなかった。  リューの手当てがすむと、行進は予定より短めにきりあげられ、輿は|新《にい》|床《どこ》の儀がおこなわれる小宮殿に向かった。  喜びの日にやや|翳《かげ》りがおちたものの、都人の熱狂はふたりの姿が見えなくなってもつづいていた。 「わざとやらせたな、チェルケン殿」  小宮殿の青い門のところで、キルケスは小声で言った。 「なんのことだ、まだ婚礼の儀は終わってないぞ」  チェルケンは|唇《くちびる》をゆがめた。 「ナクシットの女はどうした?」 「神殿の地下に運ばせた。あとでゆっくり、|尋《じん》|問《もん》したいことがあるゆえ」 「そなたは芝居が|下手《へ た》なようだな。あの女が飛び出してきたときのそなたの態度、あれはふいをつかれたという態度ではなかったぞ——はじめから騒動を仕組んだとはいわないが、気づいていても黙ってながめていたことにはまちがいないな」  かまわず先に行こうとするチェルケンに、なおもキルケスはくいさがった。 「ナクシットへの反感をつのらせてくれれば、これからのことがやりやすくなる。何もわざわざ、途中でとめる必要はあるまい」 「おふたりが|怪《け》|我《が》を負うか、|亡《な》くなられるかの危険もかえりみずにか——幸い、軽傷でよかったものの、|刃《やいば》に毒でも塗ってある可能性だってあったのだぞ。とくにリューシディク殿は、そなたの暗示で身を守ることもかなわなかったはずだ」  無駄とはわかっていたが、キルケスはうったえないではいられなかった。  予想どおり、チェルケンはいつもの|嘲笑《ちょうしょう》をうかべるばかりだった。 「あれで生命を落とすようなら、それだけの運しかなかったということだ。リウィウスの王子を失うのは残念だが、おそらくそのぶんだけナクシットへの|憤《ふん》|怒《ぬ》が高まるだろう——どちらにころんでも、わが都にとっては損失にならない」 「しかし、それでは……」 「残念だな、キルケス、そなたの才はみとめているのだが——装置のほうもそなたの手を離れたゆえ、しばらく静養してみてはどうだ。一度ゆっくり、都のおかれた状況と、そなたの立場を考えてみるとよい」  チェルケンはきびすをかえし、うやうやしく迎える助手たちに囲まれて小宮殿に入っていった。  ラウスターの|老魔術師《ろうまじゅつし》のうしろ姿を見送りながら、キルケスはうなだれた。  ナクシット教団の|脅威《きょうい》も以前ほどではなくなり、石の装置も彼の力なしにもじゅうぶん働くようになって、神殿での彼の地位も重要なものではなくなっていた。いつかはと|覚《かく》|悟《ご》していたが、こんなに早く都の|中枢部《ちゅうすうぶ》から遠ざけられるとは思っていなかった。  キルケスにはひとつ、知っていて、まわりに口を閉ざしていることがあった。  |歓喜宮《かんききゅう》にいたときに見よう見まねでおぼえた|遡及《そきゅう》のわざで、グリフォンたちの一行が都に近づいているのを、彼は婚礼の前日に知った。何かのときに動向を調べるときのために、歓喜宮から持ちだしておいたグリフォンの身のまわりのものが役に立った。  いつか彼らが都の位置をつきとめ、やってくるだろうという予感がキルケスにはあった。  まだ迷いはあったが、これがチェルケンの野望を|砕《くだ》く切り札となるかもしれないと彼は思いはじめていた。  チェルケン一派と、恐ろしいほどの成果をあげた装置を、そのままにしておいてはならないと決意は固まりつつあった。     4章 新婚の夜  |新《にい》|床《どこ》の儀がおこなわれる小宮殿は、神殿と同様に青い石でつくられた美しい建物だ。大きさはそれほどでもなく、セレウコアの都ならば裕福な商人の|館《やかた》にも見劣りするだろう。  婚礼のために増築したが、宮殿の名にふさわしい規模には追いつかなかった。  新婚のふたりのための部屋は、そのもっとも奥まったところにある。細長い窓しかない造りは|豪《ごう》|奢《しゃ》に飾られてはいても|牢《ろう》|獄《ごく》を思わせた。  リューは衣装をあらためられ、花嫁の待つ部屋に送りだされた。  彼はずっと、暗示をかけられたままのふりをしていた。  チェルケンがやってきて、新床に関する指示をくりかえしたときも、彼はうまくやりすごした。  やがて|侍《じ》|女《じょ》につき添われ、純白の衣装をまとったセナ=ユリアが部屋に入ってきた。  |丈《たけ》なす銀の髪を編んだ彼女には、以前のようになつかしい相棒の姿を思い出させるものがあった。顔形は似ていなかったが、きらめく前髪が垂れる青白い|額《ひたい》や、すんなりした|眉《まゆ》のあたりがそんな連想をさそった。  いざ新床におもむいてみたが、まだ彼はどうするか決めかねていた。チェルケンの命令のままに、この銀の|乙《おと》|女《め》を床に|導《みちび》くのは問題外である。  彼女を|盾《たて》にとって脱出をはかってみるか、話が通じるようなら説得をこころみてみようかと考えていたが、どれもあまり成功率は高くなさそうだ。  暗示をかけられ、でくのぼう[#「でくのぼう」に傍点]同然のままで見知らぬ乙女を|娶《めと》るはめになりかねなかった事態は、彼を心からぞっとさせた。  婚礼の儀で結びあわされたことだけでも、今から取り消せるものなら取り消したかった。  幾重にも薄い|編《あみ》|目《め》|模《も》|様《よう》の|帳《とばり》につつまれた支柱つきの寝台に、侍女たちは新婚のふたりを|導《みちび》いた。  この日のために、東方から取りよせた|香《こう》|木《ぼく》でつくった寝台は、|蠱《こ》|惑《わく》|的《てき》な香りをただよわせていた。  五人は横になれそうな寝台にふたりが入ると、帳は降ろされ、侍女たちはしりぞいた。  しかし部屋の中にはまだ、何人かの侍女と衛兵らしき者が残っていて、異変があったときにはすぐ駆けつけられる体勢になっていた。  チェルケンは床入りを見とどけると、あとは部下にまかせて部屋を出ていった。  暗示のわざには絶対の自信があり、リューが完全なしろうとで、かわすすべも知らないものと思いこんでいた|老魔術師《ろうまじゅつし》は、新床の儀になんの不安も持ってなかった。  首尾よくいって、ラウスターとリウィウスの血筋を引く子供が誕生すれば、この婚礼の副産物としてはじゅうぶんすぎる収穫である。もし何か支障があれば、おいおい対策を立てていけばいい。  もし今後もリューが従わないようなら、第一子を得た時点で暗殺する心づもりでいた。その布石としても、今日の行進にナクシットの女が飛び出してきたのは好都合だった。  チェルケンにとっては、王族のふたりも|持《も》ち|駒《ごま》にすぎない。キルケスに|指《し》|摘《てき》されなくてもそれは明らかで、まわりに隠すつもりもなかった。  純白の|新《にい》|床《どこ》で、セナ=ユリアは小きざみにふるえていた。  婚礼の何日か前から、新床にまつわる|心得《こころえ》は老いた|侍《じ》|女《じょ》から教えられていたが、その場になると恐ろしくてたまらなくなった。  保護者のチェルケン以外にほとんど人には接しないで、小宮殿の奥深くで成長した彼女は、新しいことすべてに|臆病《おくびょう》だった。まだ見ぬ相手との婚約を言いわたされたときもそうだったように、いったん|垣《かき》|根《ね》を越えてしまえば勇気もふるえるはずなのだが。  彼女は婚礼の相手を、無理やり結びあわされたとはいえ、もてるかぎりの愛情で愛していたし、この日を待ちこがれてもいた。チェルケンに逆らって閉じこめられていたときも、彼のことばかりを考えてすごした。  出会ってからわずかばかりの時しかたってなく、ほとんど言葉をかわしたこともなかったが、そのおだやかな|眼《まな》|差《ざ》しや、|高《こう》|貴《き》な横顔をくりかえし思いかえしていた。  今や彼女は、夢にまで見た|愛《いと》しい相手と婚礼をあげ、同じ寝台にいる。  恐ろしくはあったが、ひそやかな|歓《よろこ》びもこみあげ、彼女の身体のおののきはとまらなかった。 「……セナ=ユリア姫でしたね、そう、お呼びしてもいいでしょうか」  隣の|乙《おと》|女《め》の緊張が伝わってきて、リューもややうろたえ、口ごもった。  強いられたものとはいえ、彼はこの乙女と婚礼をあげ、広い寝台にふたりきりで横たわっているのだ。  純白の薄ものひとつでかたわらにいる乙女に、彼はあらためてそれを実感した。  身を起こそうとしたが、あやしまれるかと思い、寝そべった姿勢のまま彼は横を向いた。 「ユリアとお呼びくださいませ、今日この日より……あなたは、わたくしの夫君ですから……やっとうちとけて、お口をきいてくださいましたね」  彼女の声は小さく、語尾がふるえていた。けれどその薄い色の|瞳《ひとみ》はまっすぐに彼を見つめていた。  そこにはまごうことのない|一《いち》|途《ず》な愛情があらわれていて、リューは次の言葉を失った。  何かのまちがいではないかと、彼はあらためて乙女を見つめかえした。  セナ=ユリアにとっても、この婚礼はチェルケンに強いられたものであるのはまちがいない。  暗示をかけられていたときに何かあったのだろうかと、リューは不安になった。この|清《せい》|楚《そ》な姫君が、強制的に押しつけられたでくのぼう[#「でくのぼう」に傍点]の|花《はな》|婿《むこ》を真剣に愛するようになったとは、彼にはとても考えられなかった。 「しかし、セナ=ユリア姫、わたしは……」  とまどう彼に、セナ=ユリアはそっと身を寄せてきた。|侍《じ》|女《じょ》から|新《にい》|床《どこ》の|心得《こころえ》として教えられた|仕《し》|草《ぐさ》のひとつだったが、今の彼女は心からそうしたくなってそうした。 「お|怪《け》|我《が》はお痛みになられますか、わたくしが代わりに傷を負えばよかった——あなたを失ったら、わたくしも生きていられませんわ。大事にいたらなくて、本当にほっといたしました」  薄い新床の衣がずれて、青ざめたかぐわしい|乙《おと》|女《め》の肩があらわになった。むきだしの|華《きゃ》|奢《しゃ》な肩が、彼のすぐ目の前で小さくふるえた。  同胞のしるしでもある、白銀の月のように青白くなめらかな|肌《はだ》の色はやはり、彼に遠くにいる相棒を思い出させた。  冷静なつもりだったリューも、身体が熱くなり、どぎまぎして眼をそらした。  隣に横たわっているのがなつかしい相棒だったらと、彼はそのとき、こがれるほどに思った。へだてられた距離を、何か|魔《ま》|法《ほう》のわざで縮められないかと。 「ずっとわたくしは、物心ついたときから、ひとりきりでした。都の人たちの心の支えになるという、王女の誇りだけで生きてきましたわ。あまりさびしいとは思いませんでした。高い|位《くらい》にある者は、それがあたりまえだとわかっていましたから——けれど、あなたというお方が現れて、ひとりでいるのはつらいことだと知らされました。どんなにこの日を、わたくしは待ちこがれたことでしょう。今日からは、あなたとともにいられるんですね、わたくしのたったひとりの結ばれるべきお方とともに」  熱にうかされたようなセナ=ユリアのつぶやきが、彼をこの場に引きもどした。  かたわらにいるのは相棒ではなく、婚礼をあげたばかりの|無《む》|垢《く》な|乙《おと》|女《め》であると、冷水をあびたように彼は実感した。  そして乙女はどういうわけか、あやつり人形にすぎなかった彼に|真《しん》|摯《し》な愛情を捧げている。言葉にあらわれた彼女の想いは、チェルケンやまわりから強いられたものだとは思えなかった。 「……ちがうんだ、話をきいてくれ、セナ=ユリア姫」  かすれた声で、リューは切りだした。言いだすのがつらかったが、言わなくてはならないと。 「何が、ちがうんですの?」  セナ=ユリアは驚いて、彼を見あげた。少しずつ彼女も、彼の印象が変わってきているのに気づきはじめた。  ほとんど口をきかず、彼女のほうを見ようともしなかった婚礼の前の彼とは表情からして異なっている。  考えてみれば行列の|輿《こし》の中でもその|片《へん》|鱗《りん》はあったが、婚礼をあげてうちとけたせいだと彼女は思いこんでいた。 「どう説明していいか、あなたにはまったく知らされていないようだが——わたしはチェルケンに暗示をかけられ、ずっと自分が何をしているかもわからない状態だった。婚礼の前に何度、あなたと会ったかすらも記憶にないんだ——腕に傷を負ったおかげで、今夜やっとこうして、自由に口がきけるようになった。あなたとは今が初対面といっていい」  リューは声を落とした。|侍《じ》|女《じょ》たちは近くに|控《ひか》えている様子だったから、聞かれてはまずかった。 「おっしゃることがよく……わかりません」  理解することを|拒《こば》むように、セナ=ユリアは首をふった。 「婚礼の儀を終えるまで、わたしは口もきけず、身体も動かせない状態だった。|白魔術《しろまじゅつ》の中には、人を思いのままにあやつるわざがある。チェルケンは命令に従わないわたしを、無理やり儀式に向かわせるよう暗示にかけた——あなたの夫君となったのは、わたしではない、チェルケンのあやつり人形だ」  不意にチェルケンへの怒りがこみあげ、リューの口調はきびしいものになった。  セナ=ユリアはその冷ややかな響きに|怯《おび》えた。婚礼をあげ、身も心もゆだねるつもりだった相手が、急に見知らぬ遠い他人となったように感じられた。  彼の表情は生気に満ち、これまで彼女がくりかえし大切に思いかえしてきた石のように静かな|面《おも》|影《かげ》とはあまりにちがっていた。 「……わたくしとの婚礼がおいやですの、そうじゃないかと|覚《かく》|悟《ご》したこともありましたけれど」  そう問いかけながらも、彼女の全身は氷のように冷たくなっていった。 「たとえ相手が誰であっても、チェルケンにあやつられて、意識もないうちに結婚するのはごめんだ」  何も知らされてなかった|無《む》|垢《く》な|乙《おと》|女《め》をかわいそうには思ったが、彼は怒りを抑えきれなかった。彼女を前にして、こんな|残《ざん》|酷《こく》なことを言わなくてはいけない状況にも、彼は怒っていた。 「わかりませんわ、どういうことだか……何かのわざで、あなたはあやつられていらっしゃったと……」 「そうです。わたしにとって、この婚礼はまったくあずかり知らないことだし、|新《にい》|床《どこ》の儀はおこなえない——もしもこの先、あなたの夫君としてふるまうことがあったなら、わたしの意志ではなく、暗示をかけられているのだと思ってください」  やや口調をやわらげて、彼は告げた。 「そんな……」  信じられないというふうに目を見張っていたが、セナ=ユリアは次第にすべてがわかってきたような気がした。  婚約の際に引きあわせられたときから、彼女に|一《いち》|瞥《べつ》もくれない態度は妙だった。けれど彼女は、|高《こう》|貴《き》な王族とはそうしたものだと思っていた。  確かに今の彼は、ひと目で彼女がひきつけられた婚約者とは別人のようだった。暗示のわざというものがどういうものかわからなかったが、あやつられていたということはおぼろげながらも理解できた。  思い出してみれば、婚礼の前に頼んで会わせてもらったときも、チェルケンは彼をしゃべらせまいと無理やり眠らせたりしたことがあった。 「——以前にもし無礼があったなら、許してください。わたしの意志ではなかったにしても、あなたには申しわけないことをしたのかもしれない」  怒りはやりきれない思いに変わり、彼はそうつけ加えた。 「無礼など、何もございませんでしたわ。あなたの態度は王族として立派でいらっしゃいました……わたくしは無知でしたから、あやつられてらっしゃるとは考えてみたこともありませんでした」  |睫《まつげ》をふせ、セナ=ユリアは絶望的につぶやいた。  つつましく感情を抑えていたが、最愛の恋人を失ったような悲痛が隠しようもなくあらわれていた。  まだリューには、それが不思議でならなかった。いくら考えても、本気でこの|清《せい》|楚《そ》な|乙《おと》|女《め》が、でくのぼう[#「でくのぼう」に傍点]の彼を愛していたとは思えなかった。 「あなたにはなんの罪もない、セナ=ユリア姫——このことで自分をお責めになることはないし、あなただって押しつけられた婚礼を黙って受けいれなくてもいいのですよ」  彼はわけもわからず、そうなぐさめた。  セナ=ユリアはかすかに首をふった。泣いているようにみえたが、青ざめた|頬《ほお》はぬれていなかった。 「チェルケンや配下の者たちにはとりあえず、|新《にい》|床《どこ》の儀がとどこおりなくすんだと見せかけます。あなたが責められることがないよう気をつけますから、その点は心配なさらなくていい——今夜はゆっくり眠りましょう。儀式や行進でお疲れでしょう」  何か言わなくてはいけない気持ちになって、リューは黙りこんだ花嫁にささやいた。  硬直したように身体を縮めている彼女は、まだほんの少女にみえた。実際は十七歳になったばかりだったが、|巫《み》|女《こ》として神殿深くで育てられたせいで、もっと|無《む》|垢《く》で幼い感じがした。 「あなたの……おっしゃるとおりにしますわ、リューシディク様」  やっとそれだけ、セナ=ユリアはこたえた。子供時代から、保護者のチェルケンに向かってくりかえしてきた言葉と大差のないものだった。  |封《ふう》|印《いん》がとけかけていた彼女の内なる熱い心は、また底深くに沈んでいった。 「よけいなことかもしれないが——」  見捨てられた子供のような様子がかわいそうになって、リューはつづけた。 「リウィウスもラウスターも、今となってはもう存在しない。|異《い》|邦《ほう》の地に降りたち、ここに|集《つど》うことになった同胞たちも、かつての|権《けん》|威《い》などに寄りかからず、あらたな独自の道を歩んだほうがいいのではないかと思う——あなたも、ラウスターの王女という身分にとらわれず、ご自分の望む道を歩んでいかれるといい」  セナ=ユリアは小さくうなずいた。  望む道とはなんだろうと、彼女は深い絶望のうちに考えた。  ずっと彼女は、チェルケンに仕立てあげられた人形だった。彼女が自分の意思をもったのは、チェルケンから婚約者をかばったときだけだ。  強いられた婚礼だったが、彼女は心から婚約者を愛するようになり、チェルケンの命令に初めて逆らった。  彼女の捧げる愛情は、ふつうの恋人どうしでかわされるものに通じるものはあったが、根本を成しているのは深い孤独の思いである。これまでまわりの誰からも得られなかったものを、彼女は婚約者に求めた。  彼女はこの婚礼を待ちこがれていた。ただひとつの望んでいた道だった。  しかしそれは思いがけない形で|拒《こば》まれ、彼女の歩む道は真っ暗な視界に閉ざされた。ほんのわずかな光と手がかりすらも、見つけられなかった。 「……あなたも、このままお眠りになるのですか」  視線を落として、セナ=ユリアは問いかけた。 「ええ、今夜はおとなしく、ここで眠ることにします。傷口もまだ閉じてないから、あまり無茶もできない」  広い寝台に距離をおき、リューはやわらかな純白の敷布に身を沈めた。 「どうなさるおつもりなんですか、婚礼も|新《にい》|床《どこ》も拒否されて、それから……?」 「そうですね、できるなら黙っていてくださるとありがたいのですが——いずれ、都を脱出するつもりです。以前にも見張りを|盾《たて》に逃げようとしましたが、失敗しました」  こともなげに彼は言ったが、セナ=ユリアは目を見張った。理解できないものをながめるように。 「都を出られるなんて……あなたはリウィウスの王族の方でしょう、そんなことが……」 「過去のことは忘れました。今のわたしはただの放浪者です。正直なところ、都に集まった同胞たちの|歓《かん》|呼《こ》を聞いたときにはゆさぶられるものがあったけれど、都にとどまる気にはなれない」 「許されませんわ、身分と義務を忘れるなんてことは——わたくしたちは都のいしずえ[#「いしずえ」に傍点]として、王族のつとめをはたさなければなりません。わたくしがおいやなら、婚礼はなかったことにしてもかまいませんから」  セナ=ユリアは真剣にうったえた。  思いがけなく言いかえされて、リューは驚いた。まわりのいうがままに生きてきたかにみえたこの深窓の姫君の、底に横たわる|芯《しん》の強さをかいま見た思いだった。 「あなたがそうした道を選ぶことについては、何も言える立場ではない。チェルケンの|傀《かい》|儡《らい》であっても、都のいしずえ[#「いしずえ」に傍点]でありたいならば、お好きにすればいい——身分に|縛《しば》られない道を選ぶ自由もみとめてほしいが、理解してもらえなくても仕方ないでしょう」 「信じられません、わたくしと同じ王族の方が……」  |苦《にが》い|幻《げん》|滅《めつ》と、まだ断ちきれない想いが、セナ=ユリアの青白い顔をよぎっていった。  彼女の愛した相手は、チェルケンのあやつり人形だったばかりではなく、幻の中にしか存在しなかったのではないかと、ゆっくりと襲ってくる苦痛のうちに彼女は考えた。  それからはもう、彼女は何も言わなかった。  ふたりは寝台の端と端に入り、|新《にい》|床《どこ》の夜がふけた。  リューは花嫁が気になりながらも、夜ふけには寝入ってしまった。  腕の傷が熱をもって、彼は夢にうなされた。  銀の髪にふちどられた顔がすぐ前にあり、|唇《くちびる》があたたかくふさがれた。彼はすがるように手をのばした。 「——エリー、エリー」  相棒が救いに来てくれたかと、彼は|愛《いと》しい名を呼んだ。  しかし銀の髪の主は涙をうかべ、あとずさりするように遠ざかっていった。  夢うつつのうちに、彼はそれがセナ=ユリア姫ではなかったかと思った。  失望と|喪《そう》|失《しつ》|感《かん》とともに、彼はまた眠りにひきこまれた。  夜明け近くにリューが目覚めると、寝台の一方の端にいたはずのセナ=ユリアは消えていた。  新婚の部屋の向こうで、|侍《じ》|女《じょ》たちのあわてふためいたような足音が聞こえてきた。チェルケンの部下たちも駆けつけてきたようだ。  何があったのかと、彼は身を起こした。  垂れ幕の向こうにいくつもの右往左往する影があり、声が飛びかっている。  切れ切れにつたわってきた会話から、セナ=ユリアが侍女に持ってこさせた|陶《とう》|器《き》の水差しを割り、その破片でみずからの|喉《のど》を切ろうとしたらしいことがわかった。  すぐに侍女がとめに入り、一命はとりとめたようだ。  自殺でもするつもりだったのかと、リューは|茫《ぼう》|然《ぜん》とした。  さわぎを聞きつけたチェルケンがやってきても、そのぼんやりとした様子が幸いして、暗示がとけているとは疑われなかった。  でくのぼう[#「でくのぼう」に傍点]だと思われている彼は、セナ=ユリアの突発的な行動についても追及されずにすんだ。     5章 都への道  石売りの商人から聞きだした旧道は、ベル・ダウのあまり知られていない谷のひとつを通っていた。  かつて|山《さん》|麓《ろく》の地が栄え、ベル・ダウの向こうの北の国々とさかんに交易していたころにつかわれた道である。今ではすっかり忘れられ、さびれていた。  近隣の商人たちもこのごろは、セレウコアとタウのあいだに結ばれた大交易路がもっぱらの活躍場所で、そんな道があったことすら知らない者が多い。  ベル・ダウの荒れ地をやりすごし、奥の谷へと至る最短路ではあったが、隊商も大所帯になると通れなくなるほどの|狭《せま》い難所がいくつかあった。  一行は馬を小形のものに乗りかえ、その旧道をたどった。セレウコア軍のナクシットの聖地への出陣を見とどけてからの、おしのびの出発だった。  先頭はずっと、エリアードがつとめていた。ベル・ダウの山麓までは|褐色《かっしょく》に染めていた髪をもとにもどし、都へもどる商人ふうによそおっていた。  道を行き来する〈月の民〉とまみえた場合の応対はすべて彼にまかせ、ほかの三人は砂よけの|面衣《ヴエール》をおろし、長い|外《がい》|套《とう》に身をつつんでいた。  三日つづいた単調な谷の道で、旅人とすれちがったのは一度きりだ。  セレウコアの都でひと旗あげてみたいと、故郷をあとにしてきたという若者だった。〈月の民〉と、山の部族とのあいだの二世代めだという。  エリアードは馬をとめ、その若者と少し話をした。ひとり旅に人恋しくなっていたらしい若者は、尋ねられないうちに自分からいろいろしゃべった。  彼は山あいの村で育ち、青い石の都にはほとんど足を踏みいれたことはないようだ。〈月の民〉にまつわることも、あまり知らなかった。商売に行く途中だという一行も、とくに疑っていた様子はない。  近く、都で盛大な婚礼があるということは小耳にはさんでいたようで、次にふたつの月が満月になる日におこなわれるはずだと若者は教えてくれた。  そうなると婚礼の日は明日にあたる。  都のある奥の谷までは、まだ何日か山沿いの道を行かなければならず、婚礼にはとてもまにあわなかった。  鳥にでもなって同胞たちの都まで飛んでいきたい気持ちを、エリアードは抑えこんだ。婚礼のことは知っていたし、|覚《かく》|悟《ご》はできていたつもりだったが、具体的な日取りを聞かされるのはつらいものがあった。  まわりから気づかわれるのもいやだったので、彼はつとめて平然と旅をつづけた。  当の満月の夜も、彼は何事もなかったふうにふるまい、早めに眠ろうとした。 「ねえ、起きてる?」  夜もふけないうちに、イェシルは天幕にしのんできた。 「——静かに、グリフォンが目を覚ましますよ」  エリアードは口もとに指を立てた。このもと|女泥棒《おんなどろぼう》の大胆さに、彼は驚きあきれていた。  夜中にしのびこむのが得意とはいえ、それほど広くはない天幕にはグリフォンもいるのだ。 「こんな夜に、あなただって寝てられないでしょう。なぐさめに来たのよ」 「なぐさめが必要なのは、あなたのようにみえますが」  仕方なさそうに、エリアードは寝袋をぬけだした。  話し声がしても、グリフォンはいっこうに起きる|気《け》|配《はい》もなく、軽い寝息をたてている。  ふたりは天幕を出て、あたたかみがまだ残っている|焚《た》き|火《び》の前にうずくまった。 「山あいだけあって、このあたりは冷えこみますね」  |冴《さ》え|冴《ざ》えとしたふたつの丸い月を見あげ、エリアードは焚き火の上で両手をすりあわせた。 「それはもしかしたら|牽《けん》|制《せい》?」  イェシルは、すぐ隣のきれいな横顔に目をやった。あいかわらず銀色の月のごとく、彼は青ざめて神秘的だった。  長旅の仲間として見慣れているはずなのに、初めて出会ったときのときめきがまた新たによみがえってきた。 「牽制とは、なんの牽制ですか——事実を言っただけですよ」 「あいかわらずね。あいつはいいかげんで単純だったけれど、あなたはしたたかでしぶといわ」 「いい組みあわせでしょう。いっしょにいるのが長いから、自然と役割がわかれるのですよ」 「本当に、あなたたちはお互いに補いあう、いい組みあわせだったわ。でもあいつはあなたを裏切って、今ごろは|新《にい》|妻《づま》といっしょに寝床の中よ」  挑発するようにイェシルは言った。けれどその落ちつかない|苛《いら》|立《だ》った態度はやはり、彼女のほうにこそ、なぐさめが必要のようにもみえた。 「裏切られたとは思ってませんよ。婚礼をあげるところまでいったのは初めてですけれど——そのほかはまあ、いつものことです」  あきらめているかのごとく、静かにエリアードはつぶやいた。  そんな彼の様子に、イェシルは自分の苛立ちもいっとき忘れ、思わず同情してしまった。 「——考えれば考えるほど、ひどいやつよね。真っ昼間の王宮からさらわれたのも、まぬけとしかいいようがないし、大丈夫かとこっちがやきもきしていたら、偉そうに手をふったり、女をあてがわれて鼻の下をのばしてんだから」 「それはひどい言われようですね。向こうはかなり大がかりな組織で、よからぬわざをあやつる者たちもいますから、かならずしもあの人が望んでやったことではありませんよ」 「もう、さらわれてひと月もたってるのよ。いくらあいつがまぬけだって、けっこう腕もたつんだから、本気で逃げようと思ったら逃げられるはずよ。それをおとなしく婚礼まであげちゃうってことは、あいつもまんざらじゃないという証拠よ」  なおもかばおうかと思ったが、エリアードは気力がつづかなかった。本気で相棒が婚礼を|承諾《しょうだく》するわけがないと信じてはいたが、わずかな不安がないこともない。  ちょうどそれと同じころ、都の小宮殿の奥まった部屋で、リューが花嫁相手にあやつられていた状況を説明しているとは、彼らふたりが知るよしもなかった。 「そこまで見限っているなら、なぜセレウコアの都にもどらなかったのですか。戦火にまきこまれるかもしれない危険な旅に、わざわざ同行しなくてもいいのに」  エリアードは|矛《ほこ》|先《さき》を変えた。 「どちらかというと、もうあいつのことなんかどうでもよくて、あなたのことが心配だから、ついてきたって感じかな——たとえば今夜みたいな、あなたが落ちこんだときの、気晴らしの相手になるためとかね」  言ったあとで、イェシルは照れた。 「落ちこんでなんかいませんよ、ご心配はありがたいですが」 「そんなことないわ。あいつがいなくなってから、どれほどあなたが心を痛めてきたか、少しくらいならわかってるつもり。できるだけわたしたちの前では出さないようにつとめてることも——だからよけいに、花嫁にでれでれしているあいつのいいかげんさが許せないのよ」 「では、どんな気晴らしをしてくれるんですか」  彼はふいにイェシルを引きよせ、|唇《くちびる》をかするように近づけた。けれどその|眼《まな》|差《ざ》しは、銀の月のおもてのように|鋭《するど》く冷たかった。 「あなたの望んでないことは、今夜は望まないわ。ひとりでいたくて、あたしなんかに|邪《じゃ》|魔《ま》されたくないのなら、すぐにでも天幕にもどるわよ」  負けずに、彼女は見つめかえした。  ため息をついて、エリアードはわずかに視線をやわらげた。 「——あなたをよく知っていくうちに、なぜ相棒があなたに|惚《ほ》れたのか、わかってきますね」 「|妬《や》けるわけ?」 「ええ、少し」 「でも、あたしはあなたのほうが好きだと思うわ、あいにくと」 「本気ですか、あてつけじゃなくて」 「そうよ。アルルスの町で会ったときから、あなたのことが気になっていたの」 「まったく妙な関係になりましたね。わたしも今は正直なところ、あなたにひかれていると思いますよ」  彼はもう一度、ため息をついた。  街道の北のはずれの宿場町で、なかばなりゆきから彼女と一夜をすごし、何もなかったようにふるまってはいたが、それからもおおいに気になっていた。 「女嫌いのあなたから、ひかれてるなんて言われると、いいかげんな相手からの熱烈な愛の告白より、ずっと重みがあるように思えるわ」  うれしそうにイェシルは応じた。 「わたしは別に、それほど女嫌いというわけではありませんよ。以前にもそう言いましたが」 「そういえばそうね、サライ河の宿では、下働きの娘とよろしくやっていたものね」  旧悪をよびさまされ、彼は思わず顔をしかめた。 「あれは相棒があなたに夢中だったから、やけになってやったことです」  言ってから、その言葉の意味するところに気づいて、彼の青白い|頬《ほお》は薄く染まった。  冷ややかな態度の下にかいま見えた純情な彼の一面に、わかっていたとはいえ、イェシルは感心した。 「いいかげんなあいつを、|一《いち》|途《ず》に純粋に愛してるあなたが、とても好きなのよ」 「悪趣味ですね、それは」 「お互いさまよ、純情で悪趣味なエリー」  イェシルは彼の耳もとでささやいた。  そうして言いあっているうちに、ふたりはリューの婚礼につながる|苛《いら》|立《だ》ちをいつしか頭の隅に追いやっていた。  実際の|新《にい》|床《どこ》がどのようだったかも知らず、ふたりは消えかかっていた|焚《た》き|火《び》に新たな枯れ枝をくわえ、悪趣味で楽しい時をすごした。  ふたつの月だけが彼らを見守っていた。     6章 ベル・ダウの暗雲  荒れ地の中にひそむ緑の|沃《よく》|土《ど》、|異《い》|邦《ほう》の者たちが見つけた安息の地はふいに現れた。  ふたつの月が満ちた日から、さらに三日の旅が必要だった。  山沿いの難所で一行は馬を失い、旅の終わりはほとんど徒歩で行かなければならなかった。  緑の谷に入ると、遊牧民や山岳に住む部族も行き来するようになり、彼らはあやしまれないよう道をはずれた。  このあたりでは珍しい|香辛料《こうしんりょう》と引きかえにして、彼らは遊牧民のゆったりとした深緑の衣を手に入れた。どこに監視の網があるかわからず、慎重にふるまうことにしたのである。  満月の日の婚礼は盛大におこなわれ、若い|高《こう》|貴《き》な夫妻は小宮殿で仲むつまじくすごしていると、|噂《うわさ》は伝わってきた。  ベル・ダウの入り口で、ナクシット教団の村がセレウコアの軍勢によって焼きはらわれ、ひどい|掠奪《りゃくだつ》を受けたという知らせも谷には入ってきていた。  エラス将軍の|率《ひき》いるセレウコア軍は、熱原のただ中を突っきり、その奥のナクシットの聖地めざして進軍しているという。  ナクシット教団はあわてふためき、残された少ない信徒を結集して迎えうつ準備をしているが、|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》の装置で受けた被害は大きく、|降《こう》|伏《ふく》するしかないだろうとも。  ナクシットのもしやの|来襲《らいしゅう》に備えるため、|砦造《とりでづく》りや監視に狩りだされていたこの近辺の住民たちは、おおむねセレウコア軍の侵攻を喜んでいた。  しかし一方では、同じベル・ダウの地でおこなわれようとしている大規模な戦いには不安をおぼえていた。  緑の谷に着いて二日め、遊牧民にまじって天幕を張り、都に入る方法を検討していた一行に、見知らぬ訪問者があった。  遊牧民のなりはしていたが、青白い顔と、|頭《ず》|巾《きん》からはみだした淡い金の髪は、|生《きっ》|粋《すい》の〈月の民〉にみえた。  若そうだが、〈月の民〉の年齢はよくわからないところがあるので、見かけよりは年がいっているのかもしれなかった。  |警《けい》|戒《かい》しつつ応対したエリアードに、その〈月の民〉はキルケスからの使いだと告げた。  一行がここまでたどり着いたことを、あのセレウコアのもと重臣が承知だったことに、彼らは驚いた。  周囲の目もあるので、エリアードは使いを天幕の中に迎えいれた。 「神殿で雑務をつとめているアウルと申します。キルケス殿には以前から、いつもお世話になっていた者です」  使いは礼儀正しく|挨《あい》|拶《さつ》した。 「もとはリウィウスの者です。このたびのチェルケン殿のなされようは、神官見習いにすぎないわたくしにもこらえきれないものがありました——それで神殿を裏切り、こうして使者をかってでたのです。あなたがたに力を貸すためにまいりましたので、どうか|警《けい》|戒《かい》をといてください」 「どういうことか、よくわからないが、キルケスはそのチェルケンとやらの部下か仲間じゃないのか」  エリアードが代表して尋ねた。  ほかの三人はどうやっても〈月の民〉にはみえないので、まだ警戒して、|面衣《ヴエール》をつけ、ひとことも発しないままうつむいていた。 「いちおう、形はそうですが、キルケス殿は都の繁栄のために、やむをえずチェルケン殿の決定に従ってらっしゃったのです。けれどここ最近、リウィウスの王族の方に対する|処《しょ》|遇《ぐう》で、何度も対立なさいまして、お立場を悪くされています」 「処遇、とは?」  使いのアウルはていねいな口調で、暗示をかけてリューをあやつり、実験材料にしたり、婚礼を押しつけたりした経過を語った。神殿や小宮殿内では周知の事実だが、ほとんどの|都人《みやこびと》はそれをまったく知らず、|傀《かい》|儡《らい》にすぎない君主をあがめているとも。  キルケスはそんなやり方に異議を|唱《とな》えたが、聞き入れられず、次第に|中枢《ちゅうすう》からはずされつつあると彼はつづけた。  どうすべきか迷いながら、キルケスは見よう見まねの|遡及《そきゅう》のわざでグリフォンの動きを追い、都に向かっていることをつきとめた。そして、近くまで着いたことを見届け、アウルに使いを頼んだということらしい。 「そういうわけか、婚礼を|承諾《しょうだく》したのは——なかば想像はついていたが」  小さくエリアードはつぶやいた。そこまで|完《かん》|璧《ぺき》に人をあやつれる腕は、暗示のわざに通じている彼でもとうてい及ばない、高度なものだ。  |噂《うわさ》のみで聞いていたチェルケンという|魔術師《まじゅつし》は、思ったより|手《て》|強《ごわ》そうだった。 「キルケス殿はこれ以上、意のままにあやつられる王族の方を見るにしのびないと、裏切りを決心なさったのです」 「彼は今、どうしてるんだ。婚礼をすませても、まだあやつられているのか」  すっかりアウルを信用したわけではないが、エリアードはたまらず尋ねた。 「小宮殿の奥の間に、監禁同然の状態でとどめおかれてらっしゃいます。というのも、婚礼はとどこおりなくおこなわれたのですが、|新《にい》|床《どこ》の儀のあとに支障がありまして……」 「何があったんだ」 「奥方になられたラウスターの姫君が、どうしたわけか婚礼の次の朝に自害されようとなさったのです——幸い、お|生命《い の ち》に別状はなかったのですけれど、外界のすべてに心を閉ざされてしまわれました。チェルケン殿も、医師も手を尽くしましたが、今のところはまわりが何をしても、何を語りかけても、ぼんやりとなさっているばかりです」  |新《にい》|床《どこ》で、リューはいったい何をしでかしたんだろうと、彼は不安になって口をつぐんだ。 「理由はよくわかっておりませんが、新床でのおふたりは特にいさかいもなく、すべてが順調にいっていたとのことです」  相手の心配を見てとったように、アウルは説明を加えた。 「新床でも、暗示をかけられていたのだろう?」 「そうです。だから、チェルケン殿も、あの方が何かなさったとは疑っていませんでした。奥の間に監禁されることになったのは、姫君の|病《やまい》がよくならなければ、あの方の出番はございませんからです——万事がそのとおりです。姫君もそうですが、王族とは名ばかりで、チェルケン殿はあの方を人間だとも思っていないようです。  首尾よく、両方の血筋を引く|御《み》|子《こ》が誕生されれば、おそらく用済みとして暗殺されてしまわれるのではないかと思われます。キルケス殿もそう案じておられました」 「ひどいな、同胞とは思えない仕打ちだ」 「わたくしも同感です。チェルケン殿はラウスターの出身ですから、同胞の|絆《きずな》はお信じにならないほうがいいかと思います。神殿も小宮殿も、都のおもだった部署はラウスターの者で占められておりまして、そのほかの出身で、重要な地位についているのはキルケス殿おひとりといっても過言ではありません」  黙っているのがたまらず、グリフォンは立ちあがり、ひとこと口をはさもうとした。  エリアードはそれを手で押しとどめた。 「状況はだいたいつかめたが、どのようにキルケス殿は力を貸してくれるんだ」 「はい。都のキルケス殿の|館《やかた》まで、内々にご案内するようおおせつかっております。先日もナクシット教団の|刺《し》|客《かく》が|潜入《せんにゅう》したこともあり、都にはいくつかの|関《かん》|門《もん》|所《じょ》がもうけられておりますから、神殿に出入りする商人の証明書をもってまいりました」 「——|罠《わな》ではあるまいな」  エリアードは眼を細め、使いの薄い色の眼を見すえた。 「とんでもありません。チェルケン殿があなたがたのことを知っていたら、まわりくどい罠をしかけたりせず、すぐに|抹《まっ》|殺《さつ》するべく配下の者をさしむけています」  念のために、彼はアウルに軽い暗示をかけた。  それで聞きだしたところと照らしあわせても、大きな|嘘《うそ》は言ってないようだった。  一行はアウルの案内で、都へ入ることに決めた。  相棒たちの一行が近づいてきているのも知らず、リューは小宮殿の奥で脱出の計画を練っていた。  婚礼もとどこおりなく終わり、以前より|警《けい》|戒《かい》はゆるんでいた。というよりは、彼に対する関心度が低くなったようだ。  |新《にい》|床《どこ》の夜が明けてから三日のあいだ、彼はずっと監禁されていた。食事や身のまわりのものを、チェルケンの助手が運んでくる以外は、忘れられたように放っておかれた。  キルケスは出入りを禁じられたようだった。見張りをしていた助手にわけを尋ねると、キルケスが|虜囚《りょしゅう》に同情的すぎて、よけいなことをしゃべりすぎるからだと答えが返ってきた。  それは、チェルケン一派におけるキルケスの地位が低下したということではないかと、彼は考えていた。  まわりの状況を知るすべはないが、キルケスの考案した装置の重要性がそれほどなくなったか、あるいはもうキルケスの助力がなくとも装置を扱えるようになったか、そんなところだろうと。  情報を引きだす相手は、見張りの助手たちしかいないので、リューはおりを見て彼らに話しかけた。  助手の顔ぶれは一定しておらず、返事ひとつしない者もいれば、セナ=ユリアの病状ぐらいは教えてくれる者もいた。|喉《のど》の傷はたいしたことはないが、彼女の心の傷は深いようで、いっこうに回復のきざしがないという。  なぜ婚礼の次の朝に彼女が自害しようとしたか、いろいろ考えたが、リューにはよくわからなかった。でくのぼう[#「でくのぼう」に傍点]同然だった彼にそれほどの愛情をいだいていたとは、どうしても思えない。  何か、彼の知らない事情があったのだろうと、いつも結論はそう落ちついた。  セナ=ユリアが喉を切ろうとして割った水差しの破片のひとつを、彼は寝台の下にしのばせていた。騒動に乗じて拾い、ずっと隠しもってきたものである。  しかし|鉄《てっ》|鎖《さ》でつながれた足輪を切ることはとうてい無理で、助手を油断させるか、|懐柔《かいじゅう》するかによって、なんとか|血《けつ》|路《ろ》がひらけないものかと彼はもくろんでいた。  機会は向こうからやってきた。  四日めの夜、助手のケラスが食事と着替えを持って現れた。婚礼の前にキルケスが説得に来たとき、横から幾度か口をだしてきた好戦的で野心家の青年である。 「おとなしくしてるかな、殿下」  親しげに、ケラスはささやきかけてきた。  見張りを言いふくめたらしく、ふたりきりで話せるように、彼は|扉《とびら》を閉じた。 「しばらく見なかったが、そっちこそどうだ」  |酷《こく》|薄《はく》そうな助手の顔を見つめ、リューは平然と言いかえした。 「あんた、けっこう|肝《きも》がすわってるな。まいっているかと思ったんだが」 「食って寝るだけの生活だ。身体がなまることはあっても、まいることはないな」 「俺、あんたのそうしためげないところ、前から気に入ってるんだ。こうやってふたりきりの機会をつくるのは苦労したよ」  ケラスは|唇《くちびる》をゆがめ、無理に笑った。 「悪いが、男はだめなんだ——あんたはなかなかの美男子だが、わたしの好みではない」  相手が近づいてきたので、リューはさっとおどけたように身を引いた。 「あんたな、そんな冗談いってられる立場だと思ってるのか」  青白い|頬《ほお》に朱を散らし、ケラスは彼の|襟《えり》|首《くび》をつかんだ。 「じゃあ、誤解かな、気に入ってふたりきりになりたかったと言うから、てっきりそういうことだと思ったんだが」 「あたりまえだ、気色悪い」  ケラスは手を放したが、どうも調子が狂ったようだ。 「逢い引きじゃなければ、なんの用件だ——わたしはこのとおり、ひまをもてあましているから、なんでも言ってくれ」  |愛《あい》|想《そ》よく、リューはうながした。 「かなりの確率で、あんたのその|安《あん》|穏《のん》とした生活も終わりになりそうなんだよ。それをわざわざ忠告しに来てやったんだ」 「ではそろそろ、ここから解放してもらえるということかな」 「さすがにいいお育ちの発想だな、殿下——今のところ、あんたが解放してもらえるのは、冷たくなったときだけだよ。悪いことに、それも遠くはなさそうなんだな」  赤い|舌《した》|先《さき》で唇をなめ、低い声でケラスはささやく。  そんな|仕《し》|草《ぐさ》や、やたらとなれなれしく身体にふれるやり方がおぞましく、リューはあらためてさきほどの冗談をくりかえしたくなった。 「殿下はよしてくれ。名前ばかりの、|鎖《くさり》につながれたでくのぼう[#「でくのぼう」に傍点]にすぎないと知ってるだろう」 「それだよ、リューシディク殿」 「殿もつけなくていいな、ケラス殿」  リューは寝台のへりに座り、足を組んだ。  あくまでも余裕たっぷりのその態度に、ケラスは舌打ちした。 「あんたのことは前から知っていた。あんたはリウィウスの名将として、伝説になってたからな——ラウスターにとっては敵だったが、けっこう子供のころは話に聞いてあこがれたりしたよ」 「それはどうも。しかし実際に会って、|幻《げん》|滅《めつ》しただろう」  過去のあれこれと、グリフォンの言葉を思い出し、リューは|眉《まゆ》をしかめた。 「だから、あんたにはこのまま、でくのぼう[#「でくのぼう」に傍点]の|傀《かい》|儡《らい》で終わってほしくないんだ。前にも少し言っただろう、あんたは|由《ゆい》|緒《しょ》正しいリウィウスの王族で——あのキルケスの装置を作動させる力もある。チェルケン殿も今はいろいろ研究して、ひとりでも動かせるようになったが、あんたのときよりはまだ|劣《おと》っている」 「キルケスはもう装置とかかわってないのか」  親しげに近づいてきたケラスの|狙《ねら》いはだいたいわかり、リューは別の質問をはさんだ。 「ああ、装置が軌道にのると、すぐにご用済みとなった。婚礼のあとは、神殿外の雑務を命じられたようだ——チェルケン殿はまわりの者すべてを、自在に動かす|駒《こま》としか見てないからな。いらなくなったらすぐに捨てるんだよ」 「あんたはどうやら、それに不満をもってるか、捨てられそうな不安があるようだな」  あまり興味がなさそうに、リューは応じた。 「捨てられるのは、あんただよ。俺やキルケスはまだ、おとなしく従っていれば殺されはしない」  血ばしった切れ長の眼で、ケラスは彼をねめつけた。 「わたしも用済みなのか、まだ新婚三日めなのに、|酷《むご》いな」  リューが笑って受けながすと、ケラスはあきれかえったように腕組みした。 「よほど|胆力《たんりょく》があるのか、ただの|阿《あ》|呆《ほう》か、どちらかだな、あんたは——セナ=ユリア姫が自害しかけたのを、まのあたりにしたのだろう。まだ放心状態なんだが、チェルケン殿が|催《さい》|眠《みん》のわざでいろいろ探ったところ、姫君は婚礼からのがれるべく、死のうとしたらしいとわかったそうだ。あんたに対する強い拒否反応と、婚礼への|幻《げん》|滅《めつ》が読みとれたそうだよ」 「つまり、わたしは花嫁から嫌われたんだな——正確にいえば、嫌われたのはわたし自身ではなく、チェルケンのあやつり人形だが」  |新《にい》|床《どこ》のやりとりを思い出し、リューはあざけるように言った。  死のうと思いつめたセナ=ユリアのことは胸が痛まないでもなかったが、今は事態を打開するほうが先だ。 「あんたの婚礼のあとの役割は、姫君に両国の血を引く|後《こう》|継《けい》|者《しゃ》をもたらすことのみといっていい。リウィウス系の|都人《みやこびと》をひとまず満足させたし、装置もあんたなしで、とりあえずは動かせるめどがたったからな」 「姫君から死ぬほどいやがられているわたしは、種馬の役割などはたせないということか——|賢《けん》|明《めい》な判断だな」 「そこまでわかってるなら、用済みで、これからも素直に従いそうにないあんたが|抹《まっ》|殺《さつ》されそうなのもわかるだろう——婚礼の行列であんたを襲ったナクシットの女、まだ神殿の地下で生かしておいてあるんだよ。時機をみて、あの女にあんたを暗殺させ、都人の怒りをナクシットに向ける、一石二鳥というわけだ」  確かにありそうなことで、リューは|怯《おび》えたようにうつむいた。  それを見て、ケラスはやっと|脅《おど》しが通じたと喜んだ。 「気を落とすことはない、わざわざ警告してやったのは、あんたがそんなふうに殺されるのを惜しんでのことだ」 「……助けてくれるというのか、あまり期待はしてないが」  弱々しく、リューはうったえた。 「前々から俺は、人を|駒《こま》みたいにあつかう|冷《れい》|酷《こく》なチェルケンに、ただ従っているのがいやでならなかった。あんたのことがあるずっと前からだ——こいつは俺だけじゃない。俺の下で働いている連中もそう考えている」  本題に入り、ケラスは真剣になった。 「チェルケンを倒し、あんたがそのあとがま[#「あとがま」に傍点]になるつもりかい」 「簡単にいえばそうだ。あんたをかつぎだせば、|都人《みやこびと》も|納《なっ》|得《とく》する。あんただって死なずにすむし、今のような|傀《かい》|儡《らい》ではなく、ちゃんとした地位と力を保障するよ」 「なんにしても、死ねばおしまいだな。主義には反するが、主義を通すために死ぬ気はない」 「では、取引は成立だな」  ケラスは性急だった。  実のところ、神殿内でいろいろ|画《かく》|策《さく》しているのを、いつチェルケンに気づかれるかと、彼はひやひやしていた。  うまくごまかすつもりだが、あやしまれればキルケスのように出入りを禁じられるのはまちがいない。チェルケンは|猜《さい》|疑《ぎ》|心《しん》が強く、どんな腹心の助手も心から信用していなかった。 「その前に尋ねたいが、チェルケンを倒す成算はあるのか。やつは腕のいい|魔術師《まじゅつし》だろう」  静かにリューは助手を見あげた。 「ある。俺は助手として、そばにいたからわかる——やつの得意なのは、暗示のわざと、空間のわざに関連するものだけだ。ほかはたいしたことないし、年だからそれほど体力もない」 「それなら大丈夫だな、あんたも白魔術には通じている様子だし」 「今夜の見張りは、俺の計画に賛同する者だ。見張りは前から決まっていた順番だからな、やつが当番の今夜が、|千《せん》|載《ざい》|一《いち》|遇《ぐう》の、おそらく当分はまわってこない機会だったのさ」  もう成功を約束されたかのように、ケラスは|嬉《き》|々《き》として言った。 「なるほど」  リューも慎重に笑いかえした。  武器類を隠し持っていないか、ケラスは彼の身体をひととおり探ると、足かせの|合《あ》い|鍵《かぎ》を取りだした。  完全に同盟者を信用したわけではなかったが、腕力には自信があり、あらためて手を|縛《しば》ったりしなくてもいいとケラスは判断した。説得がうまくいき、先行きの見通しがついてきたところの|油《ゆ》|断《だん》だったかもしれない。  ケラスはうずくまり、鉄の足かせをはずそうとした。装置の実験や、|露台《バルコニー》からの顔見せの際に、リューを外に連れ出すとき、いつもそうしていたように。  その一瞬の、視線が足かせのほうへそれた|隙《すき》に、リューは寝台の下にしのばせていた|陶《とう》|器《き》の破片を、ケラスの|喉《のど》もとにつきつけた。 「声を出すな、動いてもだめだぞ、喉をかっ切られたくないならな」  あやすようにささやきながら、リューは助手の腰から短剣を抜きとった。  ケラスはあんぐりと口をあけ、|額《ひたい》に|脂汗《あぶらあせ》をうかべて、相手を見つめている。|陰《いん》|謀《ぼう》をたくらむわりに、小心者らしかった。  短剣を握りなおし、リューは腕をふりおろした。  首の根のところを短剣の|柄《つか》で|殴《なぐ》られ、ケラスはその場に|崩《くず》れおちた。  |床《ゆか》に落ちた|鍵《かぎ》で、リューは足かせをはずした。  それからすぐに、掛け布でくるんだケラスを寝台にころがしておいた。  ケラスの神殿づめの者のしるしである青い長衣を身につけ、彼は|扉《とびら》に歩み寄った。  その向こうには、ケラスの仲間の見張りがいるはずだ。 「首尾よくいった、あけてくれ」  つくり声で、リューは呼びかけた。  |扉《とびら》はすぐにひらいた。 「ケラス殿か……」  青い長衣をまとい、フードを深くおろして立っている相手に、見張りは問いかけようとしたが、最後までは言えなかった。  同じように短剣の|柄《つか》で気絶させた見張りを、リューは部屋の中に放りこんだ。  小宮殿の奥まった|通《つう》|廊《ろう》には、正面の柱の角に衛兵らしい影があるだけだった。  うつむいたまま、リューは足を早めた。  身体をつつむ青い長衣のおかげで、今度こそは脱出に成功しそうだった。ケラスと背かっこうが似ていたことも幸いした。  |警《けい》|戒《かい》も以前よりはゆるまっていた。暗示をかけられているふりをしていたときに、内部の道筋を覚えていたのも役立った。  久方ぶりの自由をかみしめながら、彼は|宵《よい》|闇《やみ》のたちこめはじめた同胞たちの都に逃げこんだ。     7章 再会  神殿と小宮殿を左右にながめられる大通り沿いに、キルケスの|館《やかた》はあった。  館とはいえ、セレウコアの宿場町にある大きめの宿にもおよばない外観と造りである。谷の奥から切りだされる青い石は、表の一部にしか使われず、あとは焼き|煉《れん》|瓦《が》と|漆《しっ》|喰《くい》で|粗《あら》く仕上げてあった。  アウルに案内された一行は、都の|関《かん》|門《もん》で|肝《きも》を冷やす場面もあったが、夜ふけにそっと館に入ることができた。 〈月の民〉の都は、荒れ地の谷の隠れ里としては見事な、整然と美しい町並みではあるが、裏にまわれば辺境の小さな里とあまり変わりはなかった。  しかし都としての規模は小さくても、都めいたにぎわいはここかしこに見られる。  食糧や日用品を売る店や、商人たちのための宿などは中心部にまとまってあり、その裏手にはささやかな|歓《かん》|楽《らく》|街《がい》もあった。  行きかう人の多くは、北方人よりも|蒼《そう》|白《はく》な顔の、|淡《あわ》い色あいの髪をした、若々しい〈月の民〉だったが、近隣の遊牧民や山岳人もときどきまじっていた。そうした者たちの混血で、外見からはどちらとも見分けのつかない者もいる。  南の地方に下ってきてからは、その外見から|奇《き》|異《い》の目で見られることの多かったエリアードは、しのびこむような都入りでも、どこかほっとした思いになった。とうに失われたはずの故郷にもどったような、なつかしい気持ちだった。  館にはまだキルケスの姿はなく、しばらく待たされた一行は|罠《わな》ではないかと思いはじめた。  アウルはそんな彼らをなだめ、懸命に押しとどめていた。  内部には寝起きするための最低限のものしかなく、管理する召し使いらしい者もいない。  かなり時間がたってから、キルケスは変装して入ってきた。  そのうえ、セレウコアの重臣でいたときの長い|髭《ひげ》はきれいに|剃《そ》りおとし、髪もうしろで|束《たば》ね、|歳《とし》も二十は若返ってみえた。  最初はグリフォンにも、本物のキルケスかどうか、見分けがつかなかった。  彼は|刺《し》|客《かく》だと誤解して、とっさに背中の愛剣を抜いた。 「わたしですよ、グリフォン殿、見かけは変わっているが」  帽子と付け毛を取り、キルケスは両手をあげた。  その呼びかけ方や|声《こわ》|音《ね》は、確かに子供のころからなじんだ重臣のものだとわかったが、グリフォンは剣をさげなかった。 「おまえが本物のキルケスでも、裏切り者であることにはまちがいない」  割って入ろうとするアウルを押しのけ、グリフォンはそのまま歩み寄った。 「よくもわたしの信頼を裏切り、忠誠の誓いを破ったな。この場で|成《せい》|敗《ばい》されても、おまえには文句のつけようがないはずだ」  グリフォンは真剣そのものだった。  使いのアウルが案内を申し出たときには、キルケスについて何も言わなかっただけに、エリアードは驚いた。どうやらグリフォンは協力しあうためではなく、裏切りの|報《ほう》|復《ふく》をするためにここへついてきたらしいと。 「あなたの怒りは、確かに筋の通ったものだが、グリフォン殿——」  キルケスは青ざめたが、動じてはいなかった。 「わたしのほうにも理はありました。物事は一方から見るものではない。わたしはセレウコアで長くすごしたとはいえ、あなたの母上と同じ〈月の民〉であり、|歓喜宮《かんききゅう》にあった石も、もともとはセレウコアのものではない。リューシディク殿も客人ゆえ、歓喜宮を出る出ないはセレウコアとかかわりのないことです」 「裏切り者の理など、聞く耳はもたぬ」 「それにもうひとついえば——セレウコアの理で重臣であるわたしを|裁《さば》くにしても、この場であなたが|成《せい》|敗《ばい》する権利はない。皇帝の前で罪状を報告し、刑の執行人によって成敗されるのが筋じゃないでしょうか」 「黙れ——!」  気合いとともに、グリフォンは愛剣をふりおろした。  エリアードとアウルはとめに入ったが、腕の動きのほうが早かった。  剣は、キルケスの首の皮をかすったところでかろうじてとまっていた。  真っ青になったキルケスの|額《ひたい》から冷や汗がしたたり落ちるのをながめ、グリフォンはにやりと笑った。 「少しは怖いめを見たか。おまえの裏切りを怒っているのは本気だぞ。このくらいはおどかしてやらないと、腹がおさまらないほどにな」  決闘を終えたときのように、グリフォンは軽く一礼し、剣を|鞘《さや》にもどした。 「……しようがない人ですね、こんなときに」  とりあえずはほっとしたが、腹立ちを抑えきれないようにエリアードはつぶやいた。  うしろで高見の見物をきめこんでいたイェシルとアヤは、かっこつけて案外やるじゃないとささやきあっていた。 「で、われわれを呼びつけて、どうするつもりだ。セレウコアを裏切り、〈月の民〉も裏切るつもりだと聞いたが」  腕組みして、グリフォンはもと重臣を見おろした。 「同胞を裏切るつもりはありません。むしろこれからの同胞たちのために、チェルケンの|独《どく》|裁《さい》をやめさせたいのです——ラウスター出身の腹心たちの中にも、不満をいだいている者は多い。婚礼の儀が終わり、ナクシットの|脅威《きょうい》もやわらいで、これまでたまっていたものが吹きだしかけています」  キルケスは気をとりなおし、冷静をとりもどした。 「〈月の民〉の|内《ない》|紛《ふん》にかかわる気はないぞ。半分はその血筋を引いているが」 「あなたがたに来ていただいたのは、チェルケンの手の者からかくまい、リューシディク殿をお返しするためです」 「あの人は、向こうに見えた青い建物にまだ閉じこめられているのですか?」  エリアードは口をはさんだ。グリフォンにまかせておくと、本題からはずれた議論ばかりになりそうだった。 「本来なら、今ここにお連れする予定でした。小宮殿の見張りを|買収《ばいしゅう》し、お救いに行ったのですが——」 「何かあったのですか、まさかもう……」  彼はキルケスの肩をつかんだ。 「いや、おそらくご無事とは思います——わたしが、あの方のとらわれている部屋に行きましたら、|扉番《とびらばん》の見張りが気絶し、チェルケンの配下のケラスという者があの方の寝台にのびていたのです。鉄の足かせははずされていましたから、独力であの方はお逃げになったにちがいありません」  キルケスはため息をついた。やっと救出の|算《さん》|段《だん》がととのったと思ったら、その前に脱出を成功させてしまうタイミングの悪さに。  助手のケラス一派はときどき小宮殿の|不《ふ》|穏《おん》|分《ぶん》|子《し》を集めていたから、リューをかつぎだして実権を奪おうと近づき、それを脱出に利用されたらしいことは、状況から想像できた。 「小宮殿ではそろそろ、異変に気づいているころだと思います。チェルケンの追っ手がのびる前に、あの方を捜しださなくてはなりません」 「捜すのは簡単だ、都にまだいるのだろう」  グリフォンは荷物袋の中から、観相板を取りだした。 「以前、|歓喜宮《かんききゅう》でさらわれたリューシディク殿の|行《ゆく》|方《え》を捜したときの道具が残っている。これだけ近い範囲なら、かなり確実に割りだせるだろう」  急いでグリフォンは、簡単な|遡及《そきゅう》のわざがおこなえるよう準備しはじめた。  都と名がつけばあらゆるところに存在する|歓《かん》|楽《らく》|街《がい》。まだ真新しい〈月の民〉の都も、その例外ではなかった。  セレウコアの都のような|爛熟《らんじゅく》はないにしろ、都じゅうのいかがわしげなものや、非合法のものが|軒《のき》をつらねていた。  安酒屋の灯がもれ、|賭《と》|場《ば》のがなり声が響いてくる路地には、暖を取るかがり火がたかれ、宿に泊まる金のない者たちがほうぼうにうずくまっていた。  小宮殿から脱出したリューは、その中のよそ者らしい老人から、みすぼらしいフードつき|外《がい》|套《とう》を|譲《ゆず》りうけた。  路地のどぶに沈めたケラスの青い長衣にはかなりの公用貨もあり、彼はまよわず|歓《かん》|楽《らく》|街《がい》をめざした。  金さえあれば、どこの土地でも、この手のところが身を隠すのには一番である。  セレウコアなどの大国とちがい、ここでは組織だった衛兵団が都を|徘《はい》|徊《かい》していることもない。  表向きは神殿の神官でしかないチェルケンは、|砦《とりで》や都の警備は|都人《みやこびと》から集めた有志でまかなっていた。  小宮殿の|露台《バルコニー》からときどき手をふり、婚礼の行列では通りを埋めつくした都人から|歓《かん》|呼《こ》をあびたリューだったが、すれちがう人は誰も彼に関心を向けなかった。  同胞たちの中では、彼の|容《よう》|貌《ぼう》は目立たなかったし、みすぼらしいなりでうつむいて歩いているのが、かいま見た|高《こう》|貴《き》な王族と同じ人物とは結びつかないらしい。  はやってそうな|居《い》|酒《ざか》|屋《や》|兼《けん》宿屋を適当に選んで、彼はその中に入った。  旅人らしい一群がいる卓のそばに座り、彼はひさしぶりの安酒をすすりながら、話に耳をすませていた。  ベル・ダウを越えてきたセレウコア軍の追撃が、まわりの卓で話題にのぼっていた。ナクシット教団は聖地に立てこもり、最後の抵抗をこころみているらしいと。  そんな話を聞きながら、彼はどのような道筋でセレウコアまでもどろうかと思案していた。  セレウコア方面に向かう商人を見つけ、それについていくのがまあ安全で、迷わずにすむだろう。そう考えながら、彼は酒場にそれらしい者がいないか物色していた。  相棒とグリフォンたちの一行が、都まで来ているとは想像してなかった。遠いベル・ダウの奥地にある隠れ里であるし、彼がここにいることすらわかってないだろうと思いこんでいた。  酒の追加を注文してから、リューはすぐ隣の席に腰をおろした客に気づいた。  彼と同じようにフードを|目《ま》|深《ぶか》におろし、まわりの視線を気にするかのようにうつむいている。  もしや追っ手ではないかと、彼は外套の中で短剣をにぎりしめた。しかし様子をさぐるようなところもなく、|殺《さっ》|気《き》めいたものも伝わってこない。  |警《けい》|戒《かい》しすぎかとあらためて相手を見つめ、フードの下からわずかにのぞいているつややかな銀髪に、彼の目は引きつけられた。  セナ=ユリア姫のときのように、その銀の月のような髪の色は、なつかしい相棒を思い出させた。〈月の民〉としてはありふれた色あいにちがいなかったが。 「どうだ、一杯」  連れのいない女だったら|口《く》|説《ど》いてみようかと、リューは注文したばかりの|酒《しゅ》|杯《はい》をさしだした。隣の客の前には、深皿の煮込みしか置いてなかった。  隣の客は静かにうなずき、彼のほうにいっそう近づいた。  ゆったりした|外《がい》|套《とう》に身をつつみ、うつむきかげんに座っているから、性別も|歳《とし》のころもわからなかった。 「ここで待ちあわせていたんだが、すっぽかされたようだ。隣に座ったのも何かの縁だろう、しばらく相手になってくれないか」  そうささやきながら、彼はフードの中をのぞきこもうとした。銀髪は銀髪でも、むくつけき男だったらがっかりだなと|能《のう》|天《てん》|気《き》に考えながら。  |軽《けい》|薄《はく》な思いつきだけでなく、都の様子について情報を仕入れることができたらという|狙《ねら》いもあるにはあった。 「旅装のようだが、聞いてよければ、どこから来たんだい」  隣の客は返事の代わりに、さしだされた酒杯を乱暴に彼の前へもどした。  いやがられたかなと彼はあきらめかけたが、その青白い手の形には見覚えがあるような気がした。 「——あきれてものが言えませんね、あなたという人は」  押し殺したような声とともに、フードの中から銀色の|鋭《するど》い|眼《まな》|差《ざ》しが返ってきた。  そんなまさかというように、リューはただ|茫《ぼう》|然《ぜん》としていた。  夢か幻か、ひさしぶりの酒でもう酔っ払ったか、としか思えなかった。 「脱出したと思ったら、その足で酒場にむかうところといい、すぐに|口《く》|説《ど》く相手を物色するところといい——少しは|懲《こ》りたらどうなんですか」  再会の喜びもふっとんで、エリアードは完全に腹を立てていた。  グリフォンの|遡及《そきゅう》のわざによって居場所をだいたいつきとめ、彼は相棒がこの|居《い》|酒《ざか》|屋《や》にいるのを見つけた。  まわりに追っ手らしい者がいないのを確かめ、彼はグリフォンたちとわかれ、客のふりをして居酒屋に入った。  さりげなくあやしまれないように声をかけようと近づいたら、リューは彼にまったく気づかないどころか、ゆきずりの相手として口説こうとしたのである。 「二階に部屋をとってあります。まだほかに口説く相手を捜したいのでなければ、そのままさりげなくあがってきてください」  小声で言いすてると、エリアードは席を立った。 「……エリー」  思わず目頭が熱くなり、言葉が見つからず、リューはただそう呼びかけた。  しかしエリアードはふりむきもせず、奥の階段のほうにさっさと歩いていった。|外《がい》|套《とう》をはおっていても、そのうしろ姿は確かに見慣れた相棒のものだ。  念のために彼は周囲を見まわし、とくに注目している者がいないのを確かめてから、すぐにそのあとを追った。  そこは一階が居酒屋と食堂、二階が簡易宿という、よくある造りになっていた。  上の部屋には相棒がひとりで待っていると、リューは思いこんでいた。  こんなところで思いがけなく再会できたのがうれしくて、グリフォンやそのほかの同行者のことはうかんでこなかった。  |廊《ろう》|下《か》をはさんで、左の部屋に明かりがついていた。  彼はそっと、|粗《そ》|末《まつ》な木の|扉《とびら》をあけた。  中は明るく、小ぎれいで広かった。  相棒はそこにいたが、ひとりきりではなく、何人かに囲まれていた。 「おお、リューシディク殿、無事で見つかって何よりだ」  グリフォンが真っ先に歩み寄って、彼の両手を握りしめた。  考えないようにしているうちにいつのまにか忘れていた大づくりの浅黒い顔が、すぐ前にあった。  |扉《とびら》をあけたまま、彼はほとんど硬直していた。  アヤが小走りにまわりこんで、彼の背後の扉をしめた。  ほかに客はなく、二階は彼らしかいないはずだったが、宿の者がのぼってくる可能性もあった。  あのままキルケスの|館《やかた》にとどまるのも危険だったので、リューが|居《い》|酒《ざか》|屋《や》に入ったのを確かめ、ちょうどいいとばかりに彼らはその二階の宿をとったのである。 「今夜、お逃がしして、せめてもの罪ほろぼしにお仲間のもとへお連れしようとしたのですが——あなたはひと足先に、ご自分でお逃げになられた。しばらく小宮殿には入れてもらえず、事前に申しあげておくことができなかったわたくしの失態です」  キルケスは深々と頭をさげた。 「婚礼をあげて数日で逃げるなんて、あなたらしいわ」  ほほえみながら、イェシルも近づいてきた。無事を祝うように、もと|女泥棒《おんなどろぼう》は彼の|頬《ほお》に軽く|接《せっ》|吻《ぷん》した。 「——心配かけたな」  かろうじて、リューは彼女にこたえた。いろいろ衝撃が重なって、まだ彼は動揺していた。 「残念だけど、あたしはあまり心配してなかったわ。あなたは悪運が強いから、まず大丈夫だろうってね——むしろあなたの相棒のほうが心配で、あたしはここまでついてきたの」  彼女はあたりまえのように、エリアードのすぐ横にもどった。 「ラウスターの姫君に|惚《ほ》れこんで、本気で婚礼をあげたんじゃないかと思ってましたよ」  腹立ちのおさまらないエリアードは、まだとげをふくんだ他人行儀の言い方をした。 「惚れたなんて、とんでもないことだ。すべてチェルケンの野郎にあやつられて、無理やりやらされていたんだ——婚礼のおりには裏をかいて、うまく暗示から|逃《のが》れることができた。姫君には誓って、指一本ふれなかったぞ」  相棒の|白《しら》|刃《は》のような怒りをやわらげたくて、リューは懸命に説明した。 「日ごろのおこないが悪いと、いざというときに信じてもらえないものです。おまけにあなたという人は、悪いほうの予想はまず裏切らないときているから」 「なんでも言ってくれ、平手でなら|殴《なぐ》ってもいいぞ」  多少はまわりの目を気にしながら、リューは歩み寄って、相棒の肩にそっと手をかけた。 「エリー、エリー、本当にうれしいよ、こんなところで、こんな早くに会えるとは思わなかった」 「——妻帯者になった気分は、いかがですか」  エリアードはため息とともに問いかけた。腹を立てていても、こうやっていつも丸めこまれてしまうと思いながら。 「気分なら、最高に近いよ。おまえがもう少し再会を喜んでくれたら、最高だ」 「無事で何よりですよ。はらはらしたり、怒ったりしましたが……」  ふいにこみあげてきた喜びと|安《あん》|堵《ど》に、エリアードは言葉をつまらせた。  その思いを受けとめるように、リューは相棒の肩に手をまわした。  イェシルをはじめとするまわりの者たちは、ほほえましそうにしながらも、あきれ|気《ぎ》|味《み》にながめている。  ふたりはそのまま、言葉もなく抱きあっていた。 「さっそくだが、リューシディク殿もまじえて、今後のことを相談したいのだか——」  沈黙を破ったのは、せっかちなグリフォンである。彼はその場にながれる微妙な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》にも気づかず、口をはさんだ。 「|野《や》|暮《ぼ》ねえ、あんたって——もう少し、再会の喜びにひたらせてあげたら」  イェシルが腕組みしたまま、茶化した。  けれどグリフォンはなんのことを言われているのかわからず、けげんそうだった。 「これからどうするんだ、相談をはじめるならはじめてくれ」  渋い表情で、リューはまわしていた腕をはずした。 「ひとりならどうしようもないから、明日には都を発つつもりだったが——いろいろ思い出してみると、あのチェルケンという野郎にはお返しをしないと気がすまなくなってきた。あんたにも、|恨《うら》みの一端はあるけれどな、キルケス殿」  このひと月をあらためてふりかえり、リューは怒りをぶつけた。  キルケスは頭を垂れ、目を|伏《ふ》せた。 「わたくしはこのまま、チェルケンをほうってはおけませんゆえ、刺しちがえるつもりで、都の改革をうったえ、いさめるつもりです。それが同胞たちに対する、わたくしの責任の取り方です」  思いつめたようにキルケスは告げる。  いろいろ迷ったり、悩んだりしたが、リューを逃がすと決めたときから、チェルケンに|挑《いど》む気持ちは固まっていた。 「あの|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》と装置はどうするつもりだ?」  グリフォンが尋ねた。もっとも彼が関心をもっていたことで、そのために都までやってきたともいえた。 「封じこめるか、いっそのこと壊してしまおうかと考えてます。わたくしが考案したものとはいえ、空間のわざを応用してのあれの効果は、恐るべきものです。ベル・ダウの|山《さん》|麓《ろく》を焼き、ナクシットの聖地の半分を|壊《かい》|滅《めつ》させた威力はすさまじいものでした——あのままでは、チェルケンだけでなく、かならず悪用する者が現れます。結束が固かったはずの助手たちの中にも、あれを目当てにチェルケンを|葬《ほうむ》ろうという動きすらあります。  あの力はまだ、わたくしたちのふれてはならない領域のものだと、今となっては思えるのです」 「まったく同感だ。安易に用いられないよう、それが得策かと思う。使い方をあやまらなければ、素晴らしいものだが、われわれはまだ未熟だ。壊してしまうにはしのびないが、仕方あるまい」  ずっと|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》の研究をつづけてきた|魔術師《まじゅつし》どうしとして、グリフォンとキルケスは同じ思いにうなずきあった。 「やるならば、今夜のうちです——わたしの裏切りがまだおおやけになってなく、リューシディク殿がいなくなって混乱している今夜なら、神殿のほうもそれほど|警《けい》|戒《かい》してないでしょうから」  キルケスはそう告げて、かねてから考えていた装置の封じこめ計画を話しはじめた。  神殿の内部と、装置のつくりをよく知っている彼ならではの|綿《めん》|密《みつ》なもので、まわりの者たちはそれにただ聞き入った。     8章 |魔術師《まじゅつし》の対決 「ちょろいもんね」  神殿の見張りを一撃で倒し、イェシルは笑ってつぶやいた。  すぐにアヤが|綱《つな》を持って駆けより、のびた見張りの手足を|縛《しば》りあげた。息のぴったりあった|手《て》|際《ぎわ》である。 「調子にのって、|油《ゆ》|断《だん》するな」  グリフォンは得意な腕力で別の見張りの首をしめあげ、リューは柱の向こうにいた神官を|殴《なぐ》りたおした。  |床《ゆか》にころがった見張りたちを、エリアードは柱の陰に押しこんだ。|荒《あら》|業《わざ》は相棒たちのほうが得意だったから、まかせておくことにした。  神殿に突入してすぐの、早業だった。  リューの脱走や、ケラス一派の|不《ふ》|穏《おん》な動きで右往左往している小宮殿を横目に、彼らは|闇《やみ》にまぎれて神殿にしのびこんだ。  かなりの人手が、騒ぎのただ中にある小宮殿や、リューの|捜《そう》|索《さく》のために狩りだされていて、いつもより神殿の入り口は見張りの数も少ないようだ。  こんなときのためにと、内密に型を取ってあった|合《あ》い|鍵《かぎ》で、キルケスは奥につづく|扉《とびら》をあけようとしていた。  鍵を取りかえられたのか、合わなくて手間どっているのを見かねて、グリフォンが力まかせに体当たりする。  |蝶番《ちょうつがい》がずれたところに、ほかの者も力をあわせ、|強《ごう》|引《いん》に扉をこじあけた。  内部はキルケスにとっては庭のようなものだったから、先頭に立って進んだ。  彼らのまず第一の目的は、|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》の装置を壊してしまうことだった。  |狭《せま》い奥の|通《つう》|廊《ろう》で、グリフォンは腰帯にさげていたいくつかの小袋の中から、半透明の白っぽい粉をつかみだし、まわりにばらまいて歩いた。  近くで何か強力なわざが働いているときに、赤く光って警告を発する、識別のための粉である。グリフォンがいつも持ち歩いている観相師の七つ道具のひとつだった。  通廊に立っていた神官に暗示をかけて聞き出したところによると、チェルケンは小宮殿で、ケラス一派の反乱計画を問いただしているところらしい。  けれど、空間のわざを自在にあやつるチェルケンは、神殿内ならどこにでも自在に現れることができるので、キルケスは|警《けい》|戒《かい》のうえに警戒を重ねていた。  不意打ちや、ほかの|罠《わな》がないかを調べながら、彼らは慎重に進んでいった。  |虚《こ》|空《くう》の扉を用いる空間のわざは、まだ〈月の民〉特有のもので、この地の|魔術《まじゅつ》の総本山であるドゥーリスでもシヴァスでも、体系化して意のままにあやつれる魔術師は|皆《かい》|無《む》だという。  正確な|座標《ざひょう》が不可欠であるから、理論的には|像《ぞう》|喚《かん》|起《き》のわざの進んだ形に分類されるはずだが、それでも不明な点が多い。  さまざまな面で、〈月の民〉のほうが高度なわざには|長《た》けているようだった。自信家のグリフォンといえども、ここは慎重にならざるをえなかった。  |通《つう》|廊《ろう》の途中にひとところだけ、青と白の|格《こう》|子《し》|柄《がら》になった|床《ゆか》に赤い反応が現れた。  警告の部分は中央の一区画だけで、彼らは壁にはりついてそこをよけた。 「ここを不用意に通る者は、おそらく監視の幕に姿が映る仕組みとなってるようです——グリフォン殿なら、像喚起のわざを応用したものだとおわかりでしょう」  通りすぎてからも気味悪がっている一行に、キルケスは説明を加えた。  グリフォンは小さくうなずいた。神殿に踏みこむにつれて、彼は次第に、|魔術師《まじゅつし》としてのチェルケンに対抗意識をいだきはじめていた。  装置の|岩《いわ》|室《むろ》につづく石の|扉《とびら》の前には、見張りがふたり、立ちはだかっていた。  神殿内にいるのは神官ばかりで、見張りたちの中にもそれほど腕の立つ者はいなかったが、この|要《かなめ》のところだけは別のようだ。  まずグリフォンが、やはり腰の小袋から取りだした砂のようなものを見張りに投げつけた。これを吸いこむと、しばらくのあいだ声が出なくなるというものだ。  |曲《くせ》|者《もの》を知らせようとする見張りたちの声はかすれ、口をぱくぱくさせながら大きな剣で切りかかってきた。  すぐに背中の長剣を抜き、グリフォンはその一方を迎えうった。  愛する母親の名を冠した彼の剣は、刃の厚い相手の剣と打ちあって、火花を散らした。  切りかかるというよりは、剣の丈夫さと腕力に頼って、|斧《おの》のようにふりおろしてくる攻撃には、グリフォンもまいった。  技量で|劣《おと》るとは思わないが、愛剣が刃こぼれでもしたら一大事だと、彼はただよけるだけにまわった。  リューはもう一方の見張りのふところに飛びこみ、重い剣をふりまわさせる前に、手にした短剣をその首筋に突きつけた。  見張りの動きはとまった。  すかさずその背後に歩み寄ったイェシルは、鋼鉄の右手で後頭部を|殴《なぐ》りつける。  アヤは肩にかついでいる|綱《つな》で、手早く見張りの手足を|縛《しば》った。イェシルと組んで|泥棒稼業《どろぼうかぎょう》をしてきたときに、よくやったわざの|披《ひ》|露《ろう》だ。  担当の片方をかたづけた彼らは、愛剣をかばうあまり苦戦しているグリフォンの助けに入った。 「あまり、手間どるなよ」  横から近づいて、リューは見張りの腕をつかみ、大きな剣をふり落とさせた。  グリフォンは注意深く、剣を|鞘《さや》にもどし、それからおもむろに見張りの腹部へのめりこむような一発を見舞った。 「見事な|連《れん》|携《けい》、というべきでしょうね」  手助けは無用とながめていたエリアードは、隣のキルケスにささやきかけた。  石の|扉《とびら》は、|呪《じゅ》|文《もん》で封じられていたが、キルケスはすぐにそれを読みとり、解放した。  チェルケンのやり方には|癖《くせ》があり、決まったいくつかの言いまわしも、そばで見ていたキルケスは覚えていた。  |月《げつ》|炎《えん》|石《せき》の装置は、リューが実験のために連れてこられたときのままになっていた。  |天井《てんじょう》の高い|円《えん》|錐《すい》|型《がた》の|岩《いわ》|室《むろ》には大穴がうがたれ、その中央に神殿のご神体である原石を安置し、上になった平たい面に作動させる者の|椅《い》|子《す》がすえられている。  セレウコアにもたらされた月炎石は、その椅子の真上にある透明な台に固定されていた。  その角度や向きで、効果のほどが微妙にちがい、今はもっとも望ましい位置に保たれているはずである。  月炎石はあいかわらず、小さな地上の月のようにきらめき、|魅《み》|惑《わく》|的《てき》な輝きを発していた。  それをまのあたりにし、装置を壊すためにおもむいたはずのグリフォンとキルケスも、決意がくじけそうな思いで立ちどまった。  ふたりにとっては、まだそれが原石のときから、身近において調べてきた貴重な石である。  とりわけキルケスは、装置の設計にもすべてたずさわっていたから、悲痛な思いでいた。 「早くしてくれ、この|期《ご》におよんで、やめるとは言いださないでほしいな」  実験台になり、さんざんなめにあったリューは、ためらっている彼らをうながした。  助手のケラスの言葉から考えても、この装置が存在し、作動させたがる者がいるかぎり、彼はまた|狙《ねら》われかねないのである。  雨を降らすだけでなく、|落《らく》|雷《らい》で村を焼くようなことが可能な装置と何かつながりがあるというだけで、彼はいやだった。|砕《くだ》けた月の破片などに、とうに失われたはずの故郷が引きずるものに、これ以上は|縛《しば》られたくはない。 「——当初の計画どおりにやりましょう」  キルケスはみずからを|納《なっ》|得《とく》させるようにうなずき、準備してきた皮袋のひとつをグリフォンに渡した。  中身は通称〈|炎《ほのお》の粉〉と呼ばれている、火薬の一種だ。  ふたりは装置の図面からあらかじめ計算してあった場所に、分量を確かめながら〈炎の粉〉をまいていった。  岩穴の底に、その周辺の|亀《き》|裂《れつ》に、そして|円《えん》|錐《すい》|型《がた》の高い|天井《てんじょう》を支える柱のまわりにも、黒い粉はかけられた。  量のかげんと位置の正確さが要求される仕事なので、ほかの者たちは手を貸さず、|扉《とびら》や|通《つう》|廊《ろう》のほうを見張っていた。 「あの|鉛《なまり》の固まりは、あんなにきれいな七色の石だったんですね。岩の下敷きにしてしまうのは、なんだかもったいない気がするな」  隊商から石を|託《たく》されて運んだ旅を思い出し、エリアードは|感《かん》|慨《がい》|深《ぶか》げにつぶやいた。 「もとはクナの穴の底に眠ってたんだ。ふたたび安らかな眠りを与えてやったほうがいい」  見ているだけでいまいましさがつのり、リューは冷たく応じた。この装置が破壊されたと知ったときのチェルケンを思うと、多少はこれまでの|恨《うら》みも晴れる気がした。 「見て、赤く光りだしたよ」  見張りとして通廊にいたアヤが駆けこんできた。  キルケスとグリフォンはその声に、もう少しで終わりそうな作業を中断した。 「来たかな、やつが」  好敵手を迎えるかのように、グリフォンは|嬉《き》|々《き》として進み出た。 「装置を背にするのです。装置が大事だから、無茶な攻撃はしてきません」  キルケスはみなに声をかけた。  けれど、赤く発光する空間を|裂《さ》くように現れたのは、チェルケンその人ではなかった。  巨大な|獅《し》|子《し》か|虎《とら》のような猛獣が、|牙《きば》をむきながら|通《つう》|廊《ろう》におどりでてきた。  アヤは悲鳴をあげ、イェシルにしがみついた。イェシルは動じてなかったが、思わずあとずさりした。 「目くらましだ、おそらく」  幻術破りの粉を、グリフォンは猛獣に向かって投げつけ、すぐに剣を抜いた。  アルルスの分教所で負傷するはめになったように、猛獣の幻に隠れ、もっとたちの悪い小形の|獣《けもの》が待ちうけている場合もあった。  粉の向こうから、猛獣はそのままの大きさで彼に襲いかかってきた。幻術ではなく、実体があるらしい。  彼は猛獣の鼻先で剣をふりまわし、|威《い》|嚇《かく》した。  うなりながら、獅子と虎の中間のような獣は足をとめた。  赤く光る空間からは、次の獣が現れた。黒い翼をはためかせた大形の馬のような獣である。|鋭《するど》い牙と|爪《つめ》が光っていた。  |魔術《まじゅつ》のわざでないならと、リューはそれを迎えうった。  はばたいて上からふりおろしてくる爪をよけながら、短剣で小さめの頭部に|狙《ねら》いをつけた。  命中したはずだったが、まったく手応えはなかった。  そうするうちに、また別の獣が現れた。  いつのまにか、獣の数は増え、彼らの人数と同じぐらいになった。  切っても突いても、獣たちには弱まった様子がない。  彼らは仲間をかばいあいながら、目の前の獣を相手した。  いくつかの現存する獣をかけあわしたような姿と、手応えのなさからして、幻術のたぐいにちがいないのだが、グリフォンにすらわざの破れ目がつかめなかった。  悪夢のような獣たちの姿の向こうから、本物めいた剣のきらめきがときおり返ってきた。それが実体のようにみえた。  弱いアヤとキルケスをかばうようにして、彼らはひとところに固まりながら、次第にあとずさりしていった。 「獣は見るな、きらめく動きだけに注意しろ」  とりあえずグリフォンはそのほうがいいと判断し、まわりに指示した。  その言葉と反応するように、獣の姿は薄らぎ、剣のきらめきだけが宙を舞うようになった。  もと|辣《らつ》|腕《わん》の|傭《よう》|兵《へい》らしく、イェシルも|気丈《きじょう》に戦っていた。  リューも相棒と彼女に気をつけながら、自分の短剣と、見張りから奪った剣をそれぞれ左右に持ち、攻撃をかわした。  致命傷にはならないまでも、前線の者たちは細かい傷を負っていた。  このままでは少しずつ切りきざまれていくのではないかという恐怖が、彼らの胸にわいてきた。  恐怖はよけいに、彼らを|消耗《しょうもう》させた。  けれどエリアードだけは何か違和感をおぼえていた。これと似たわざを、どこかで知っている気がした。この地に来てからではない、もっと以前の、リウィウスにいたころに。 「ちがう、これは——」  エリアードはふいにつぶやき、身をかばうためにふりまわしていた腕をとめた。  そこを|狙《ねら》うように、|鋭《するど》いきらめきが襲ってきた。 「馬鹿、うしろにさがれ」  相棒をかばうように、リューは前に出た。  剣先は代わりに、彼の肩を深々と切りさいた。  彼自身にも、まわりの者たちにも、確かにそうみえた。  実際に傷の痛みも感じられ、気を失うように倒れこんだ彼を、エリアードは抱きとめた。  とっさの思いつきで、エリアードはその|額《ひたい》を指先で打った。素早く暗示をとくときのやり方だった。  けげんそうにリューは目を開いた。  大きく口をあいていたはずの無残な傷は、|跡《あと》|形《かた》もなく消え失せていた。 「これは|集団催眠《しゅうだんさいみん》の一種です。わたしたちがお互いに悪夢を|紡《つむ》ぎだしているのです」  キルケスがはっとしたように、彼を見つめた。  リウィウスにはそういうわざがあると、キルケスも聞いたことがあった。しかし、禁断の秘法に属するもので、実際にまのあたりにしたのは初めてだった。  やはり胸を突かれたと思いこんだグリフォンが、顔をゆがめてうずくまっていた。  エリアードは同じようにして、彼の額を打った。  目覚める者が増えると、幻覚は次第に薄れていった。  剣のきらめきも、幻のひとつだった。  実際の傷を負うことはないが、気の弱い者なら半狂乱になるか、ショック死するかもしれない危険なわざだ。  やっと悪夢を払いのけた彼らは、チェルケンがすでに石の|扉《とびら》から侵入し、ご神体の円盤石の上へ駆けていくのに気づいた。何よりもまず、大事な装置を守るために。  彼らが悪夢と格闘しているうちに、チェルケンは真っ先に石のところへ向かったらしい。  ケラスが言っていたとおり、チェルケンは年老いて体力もなく、剣も持てないせいなのか、わざをかけただけで近づいてはこなかった。  その代わりのように、武装した配下の者たちが石の|扉《とびら》の向こうに迫ってくるところだ。  空間のわざでチェルケンがまず駆けつけ、配下たちも急いで小宮殿からやってきたらしい。  扉の向こうに見えたのは十人ほどで、キルケスのよく知っている顔もまじっていた。ケラスたちとはちがい、どちらかというとチェルケンに忠実な者たちばかりだ。  われにかえったキルケスはすぐ、腰にゆわえてあった|松明《たいまつ》に火種から火をつけた。  空気が|濁《にご》っているせいか、|炎《ほのお》はゆらぎながら弱々しく燃えた。 「|岩《いわ》|室《むろ》の中に、一歩でも入るな」  なじんだ顔ぶれを見まわし、キルケスは扉のほうに進み出た。松明の炎で|威《い》|嚇《かく》するように。  装置の考案者であり、神殿内部でも地位が高かったキルケスの|高《たか》|飛《び》|車《しゃ》な命令に、彼らはいっとき足をとめた。 「こやつの言うことに耳を貸すな。|邪《じゃ》|悪《あく》なよそ者たちを聖なる岩室に連れこんだ裏切り者だ」  装置の|椅《い》|子《す》に座ったチェルケンが、反対にそう命じる。 「待て、中に入れば、そなたたちも巻きぞえで死ぬことになる。この装置の設計者であるわたしがいうのだから、まちがいない——ここにはすでに〈炎の粉〉をまいてある。火をつけるだけで、あとわずかのあいだに、装置は岩の下敷きとなるのだ」  冷静な、朗々とした声で、キルケスは告げた。 「なんと……なんということだ、それは出まかせであろう?」  椅子のチェルケンは|狼《ろう》|狽《ばい》した。キルケスがそうしたことをやりかねなく、またやれるだろうことは、|老魔術師《ろうまじゅつし》もみとめた。  それが伝わったのか、配下の者たちもさらにあとずさりしていった。 「さあ、|生命《い の ち》の惜しい者は、早く神殿の外へ逃げるがよい」  キルケスはさらにおどかした。  本当は神殿自体を|崩《くず》すほどの分量は用いていず、岩室を出れば巻きこまれずにすむはずだったが、何人か、|通《つう》|廊《ろう》を逃げていった者もいた。  もとより衛兵として訓練された者たちではなく、神官見習い程度の者もいたから、|脅《おど》しはきいた。 「その松明を取りあげろ、取りあげれば大丈夫だ」  椅子から身を乗りだして、チェルケンはわめいた。  自信家で|傲《ごう》|慢《まん》そのものだったこの魔術師が、初めて配下の前でうろたえたところをみせた。本気で|逆《さか》らえまいとなめていたキルケスの反旗と、装置を壊されそうな不安に、チェルケンは冷静さを失っていた。 「かかれ——!」  多少は腕におぼえのある助手たちが、キルケスに剣をふりかざした。  グリフォンとイェシルがおどり出て、すぐに応戦した。  明らかに〈月の民〉ではないふたりに、配下の者たちは驚き、その戦いなれた腕前にふたたび驚いた。  わずかな打ちあいをみて、かないそうもないとさとった何人かは逃げかえった。  |勇《ゆう》|敢《かん》に向かってきた者も、ひとりは|利《き》き|腕《うで》を切りつけられ、もうひとりは腰を押さえ、もうひとりは岩の|床《ゆか》に倒れて動かなくなった。 「ひるむな、すぐに援軍を呼べ」  チェルケンはあわてて命じた。 「うるさいな、少しは黙ってろ」  |恨《うら》みをこめて、リューは短剣を投げつけた。  短剣は正確に、チェルケンの|削《そ》げた|頬《ほお》のすぐ横をかすっていった。 「そんなところで叫んでないで、あんたも逃げたらどうだ。それとも石のかけらといっしょに心中する気か」  少しは気がすんだリューは、やさしく忠告してやった。 「おっしゃるとおりだ、チェルケン殿、早く逃げるがいい——わたしは本気で、自分で造った装置を壊すつもりだぞ」  どこか|哀《かな》しげに、キルケスは言葉をつづける。 「これは安易に用いてはならないものだ——そなたはナクシット教団を|威《い》|嚇《かく》するために、これを何度か用いたが、長い目で見れば、そうしたことは都にとって|厄《やく》|災《さい》の根となろう。〈月の民〉と呼ばれる者たち全体にとってもそうだ。  同じ|魔術師《まじゅつし》として、この装置を重んじるそなたの気持ちはわかる。心を決めた今でも、わたしはつらくてならない」 「なんと血迷ったことをたくらんだのだ、愚か者め——そなたの能力は買っていたが、その青くさい理想主義でいつも帳消しになる。どのようなものも扱う者の力量しだいだ、わたしはこれを安易になど用いてはおらぬ。この先いくらでも、有意義な用い方を考えてあるのだぞ」  チェルケンの|声《こわ》|音《ね》には|苛《いら》|立《だ》ちが消え、|屈辱《くつじょく》とあきらめのようなものがまじりだした。 「このままでは岩の下敷きになる。|脅《おど》しでもなんでもない。|椅《い》|子《す》から降りてこちらに来るとよい——わたしはそなたを手にかける気はない。装置を壊してから、そなたとじっくり、われらの未来について話しあう心づもりだった」 「信じられんな。そなたのうしろにいる優秀な戦士たちが|見《み》|逃《のが》してくれるとは思えぬ。同じ滅びるならば、故郷の一部とともに下敷きとなるほうがよいな」 「チェルケン殿、考えなおしてくれ」  椅子でうなだれるチェルケンが、キルケスには弱々しく老いさらばえたようにみえた。  ふいに強い同情の念がわきあがり、キルケスは装置の椅子に足を踏みだそうとした。 「これもあの魔術師の手ですよ、暗示と|催《さい》|眠《みん》のわざに|長《た》けていることは体験ずみでしょう」  キルケスの肩をつかみ、エリアードは耳もとで|叱《しっ》|責《せき》した。  けげんそうにキルケスは足をとめ、声の主をふりかえる。  椅子に腰かけたままの老魔術師を、エリアードはにらみすえた。 「見事な腕前ですね。人をあやつるには、いろいろ制約があるはずなのに、あなたはものともしない。ちょっとした|仕《し》|草《ぐさ》や、声の|抑《よく》|揚《よう》で、気持ちをひきつけておく手際には感心しましたよ。弟子入りして、習いたいくらいだ——さきほどの集団催眠のわざも、素晴らしかった。最初に幻の種をまくだけで、相手に幻覚を共有させあい、増幅させあうわざがあることは、リウィウスにいたころに話だけでは知っていましたが」  これ以上、キルケスがあやつられないように、エリアードは話をそらした。 「あれを見破ったのは、そなただったらしいな——リウィウスの魔術師か?」 「いいえ、魔術師などと名のるのもおこがましい未熟者ですよ。途中で修練を放りだした身ですからね」 「|謙《けん》|遜《そん》することはない」  |憎《にく》|々《にく》しげにチェルケンはつぶやいた。幻覚の破れ目を見つけられる同胞の|魔術師《まじゅつし》がついているとは予想してなかったのが、第一の敗因にちがいなかった。 「早く火をつけろ、死にたいなら、放っておけばいいんだ」  このまましゃべらせておいたらろくなことはないと、リューはせきたてた。  うかつさを反省したキルケスも、さすがにうなずいた。  |通《つう》|廊《ろう》につづく|扉《とびら》では、グリフォンとイェシルが剣をふりまわし、近づいてくる助手たちを追いはらっていた。  神官見習いらしい若者が小宮殿での騒ぎを知らせに来てからは、援軍に来た者たちの数は半分にへっていた。チェルケンがいなくなったのを絶好の機会と、ケラスの反乱に|加《か》|担《たん》していた者たちが小宮殿を占拠したらしい。 「これが最後の忠告だ、チェルケン殿、|椅《い》|子《す》を降りてこちらに来たまえ」  キルケスは呼びかけ、〈|炎《ほのお》の粉〉をまいたところに|松明《たいまつ》を持って近づいた。 「——やめろ、しばし待ってくれ」  あわててチェルケンは、椅子から立ちあがった。  やっと決心がついたかと、キルケスは足をとめた。  しかしチェルケンは彼らのほうには来なかった。その場で両手を上に|掲《かか》げ、頭上の|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》をあおぐようにして、扉の形をつくりはじめた。  月炎石も、足の下のご神体[#「ご神体」に傍点]も、それに呼応するかのごとく、ほのかな光を増していく。 「なんと、空間のわざを、そんなところで……!」  |蒼《そう》|白《はく》になったキルケスは、意を決して、松明の炎を〈炎の粉〉めがけて投げつけた。  激しい音をたてて、すぐに炎が燃えあがる。  |岩《いわ》|室《むろ》をぐるりと囲むようにまかれた〈炎の粉〉は、たちまち炎の|蛇《へび》と化した。 「お逃げください、早く、この神殿から——すべて破壊されます、装置だけでなく、神殿全体が」  もうあとも見ずに駆けだしたキルケスは、わけがわからずにご神体[#「ご神体」に傍点]のほうをながめている一行に叫んだ。  ご神体[#「ご神体」に傍点]の中央に、空間をつなぐ幻の扉はぼんやりと形をとりはじめた。 「あやつが元凶だ」  よからぬわざをやめさせようと、グリフォンは|懐《ふところ》の短剣を手に歩みでた。 「いけません、へたをすれば巻きこまれます」  キルケスは全身で彼を押しとどめた。  グリフォンは|舌《した》|打《う》ちしたが、言われたとおりに逃げることにした。敵に背中を見せるようで、彼はどうも気分が悪かった。 「だから情けは無用なんだ、まったくあの手この手と、|懲《こ》りずにくりだしやがって」  走りながら、リューは文句をつけた。キルケスのつめの甘さが、こんな事態を呼んだのだと。 「このまま放っておいていいのですか」  石の|扉《とびら》のところまで退却して、エリアードは問いかけた。 「……とめられません、もうだめです、あれは自殺行為どころじゃない、|聡《そう》|明《めい》なチェルケン殿が、なぜ……滅びるなら、ともにということか」  息をきらすキルケスは、信じられないというように首を横にふりつづけた。 「あとはただ、わざが成立する前に、爆発で装置が壊れることを祈るだけです」 〈|炎《ほのお》の粉〉に燃えうつっていく炎は支柱の周囲をめぐり、岩穴の底へと炎の線を描いていった。  チェルケンはそれに目もくれず、老いさらばえた身体から力をふりしぼって、空間のわざに専念している。  次第にくっきりとしはじめた扉に目盛りのようなものを刻み、飛ぶ先の座標を示しているところだ。 「急いでください——急いで!」  |岩《いわ》|室《むろ》の重い扉を閉じ、彼らはもと来た|通《つう》|廊《ろう》に向かった。 「チェルケン様はどうした、この裏切り者め」  最後まで|老魔術師《ろうまじゅつし》に忠実な助手たちが、キルケスに襲いかかってきた。 「すぐに逃げるんだ、神殿が|崩《くず》れるぞ——チェルケン殿はみずから、滅びの道を選んだのだ」  それどころではないと、キルケスは助手たちを|叱《しっ》|責《せき》した。  グリフォンが先頭に立って、つかみかかってくる者を|殴《なぐ》りたおす。  石の扉の向こうでは、次々と爆発音がおこっていた。〈炎の粉〉の全体に炎が行きわたり、岩穴の主要な場所ではじけはじめたらしい。 「神殿が、崩れる……?」  岩室のほうから伝わってくる振動音に、キルケスが出まかせを言っているわけではないらしいと、助手たちも気づきはじめた。  あわてふためき、外をめざす者もいる。  反対にチェルケンを救出すべく、石の扉をこじあけようとする忠実な助手たちもいた。 「やつはあのわざで、どこかへ逃げるんじゃないのか」  通廊を急ぎながら、リューは尋ねた。魔術についてはよくわからないので、何がどうなったのか、説明がほしかった。 「いいえ、それは万が一も無理です、とうてい助からないことは本人も承知の上でしょう——正直なところ、どうなったとしても、ここにいてはきわめて危険だとしか、確かなことはいえません」  彼らが駆けぬけるあいだにも、|通《つう》|廊《ろう》の柱にはひびが入り、|床《ゆか》と|天井《てんじょう》が地震のように揺れだした。 「空間のわざと、装置の作動と、岩穴の崩壊と、そのどれもがほとんど同時におこり、互いに効果をおよぼしあうことになります——もし、〈|炎《ほのお》の粉〉の爆発がもっとも早く、チェルケンが空間のわざをなし終える前に岩の下敷きとなれば、被害はかろうじて小規模にすむでしょう。それを祈るばかりです」 「あまり聞きたくないが、最悪の場合は」 「都の半分が——ふっとぶかもしれません」  まだ理解できたわけではなかったが、リューは黙って先を急ぐことにした。  チェルケンは敗北をさとり、ただでは死なないとばかりに、自分の手で築きあげたものとともに滅びようともくろんだ。敗北に追いやったキルケスや、その仲間をすべて道連れにして。  ここまでチェルケンがやるとは考えなかったのが、キルケスの失策にちがいなかった。  けれど誰が想像するだろう。  同胞たちを|導《みちび》いてつくりあげた隠れ里の都と、|砕《くだ》けた故郷の破片を利用した装置に、あれほど心血をそそいでいたチェルケンが、それらすべてをみずから破壊するなどとは。  本来の装置は、引きだしたふたつの石の力をからみあわせ、|円《えん》|錐《すい》|型《がた》の天井のてっぺんにそれが集中するように設計されていた。  天井裏には小部屋がつき、集中した力を指定した位置に送りこむための空間のわざをおこなえるようになっている。  ベル・ダウの|山《さん》|麓《ろく》と、ナクシットの聖地に|落《らく》|雷《らい》させたときには、チェルケンがあらかじめその小部屋でわざをほどこし、力が空間の|扉《とびら》をつきぬけていくようにしておいた。それから装置のところまで降りてきて、作動者を|椅《い》|子《す》に座らせたのである。  しかしチェルケンが今やろうとしているのは、ふたつの石が|増《ぞう》|幅《ふく》しあう装置のただ中で、空間のわざをほどこすことだった。  もし、そこに生みだした|虚《こ》|空《くう》の扉から、チェルケン自身が逃げようとしたなら、ふたつの増幅しあった石の力もろとも吹きとばされるだろう。  あるいは異なった力どうしがぶつかりあい、装置の内部で破裂するかもしれない。  何が起こるのか、それは未知の領域ではあったが、装置のみならず、神殿や都にも破壊をもたらす|無《む》|謀《ぼう》な自殺行為であることにはまちがいなかった。 「この先は無理です、向こうの広間を通りましょう」  並んだ柱が次々と|崩《くず》れていく|通《つう》|廊《ろう》をあきらめ、キルケスは右手の|扉《とびら》を指さした。  その青い石の広間は、婚礼の儀をおこなうときにも用いられたところだったが、今は半分が崩れた石で埋まっていた。  落ちてくる石のかけらに気をつけながら、広間をつっきるとき、リューはここに並んで立った花嫁をいっとき思い出した。銀の|丈《たけ》なす髪をひいて、|巫《み》|女《こ》のごとくたたずんでいた|清《せい》|楚《そ》な姫君を。  広間の正面の扉からは、行事のおりに|都人《みやこびと》も参加できるようにつくられた広い石段がつづいている。  そこをぬければ、すぐに神殿の外だった。  神殿のまわりには、何事かと|松明《たいまつ》を|掲《かか》げた都の住人たちが集まっていた。暗がりでよくわからないが、地震か何かで神殿の建物が崩れたとしかみえないようだ。  神殿から飛びだしてきた彼らが石段のなかばにさしかかったころ、今までとは比べものにはならないほどすさまじい|大《だい》|轟《ごう》|音《おん》が、地中からわきあがるようにおこった。  神殿の奥の、装置の|岩《いわ》|室《むろ》があったあたりから、巨大な|炎《ほのお》の柱が吹きだした。  ベル・ダウの峰が噴火したかのような光景だった。  |真《しん》|紅《く》の柱はまっすぐに天をめざし、雲に達する地点であとかたもなく消え失せた。  石の破片や火の粉が降ってきて、神殿から|逃《のが》れでた者たちも、集まってきた|都人《みやこびと》たちもその場に身を|伏《ふ》せた。  破片の大きなもののひとつが、隣接する小宮殿の平たい屋根を直撃した。  おびただしい破片があたりに降りそそいで、穴をあけた。  しかしそれは長いあいだではなく、すぐに地面の揺れもおさまった。  空を染めた|炎《ほのお》の柱もやがて、|岩《いわ》|室《むろ》のあったところから一筋の煙がたなびくだけとなった。  あとは夜ふけの静けさのみが残された。     終章 都への復興  青い石の都はところどころ落石と火事の被害をうけたものの、大半は無事だった。  見る影もない|瓦《が》|礫《れき》の山となったのは、神殿と小宮殿の半分だけにとどまった。  その中にいたチェルケンの配下の者や、反乱に加担した者たちの多くは犠牲になったが、|都人《みやこびと》には被害が少なかった。  セナ=ユリア姫は、石に埋もれた小宮殿の奥の間から救出された。  手足に軽い傷を負っていたが、突然の都の|厄《やく》|災《さい》に、かえって彼女はみずからを取りもどした様子だった。  以前のようなぼんやりとしたところはなくなり、助けに現れたリューとグリフォンに|丁《てい》|寧《ねい》な礼を告げた。  |威《い》|厳《げん》のある冷ややかな態度だった。婚礼をあげたばかりのリューに対しても、臣下の労をねぎらうように接した。  神殿から脱出する際に、キルケスが石段から落ちて足を折ったが、ほかの者たちは軽い|火傷《や け ど》や打撲のみですんだ。  彼らはセナ=ユリア姫を助けだすとすぐ、あやしまれて無用の騒ぎをおこさないよう、キルケスの|館《やかた》に隠れていた。  まだこのときに、都の者は誰も知らなかったが、チェルケンのもたらした|炎《ほのお》の柱は空間の|扉《とびら》を通り、ナクシットの聖地近くに巨大な|雷《かみなり》のごとく落ちたのである。  ナクシット教団は今まさに、残された信徒を結集し、追撃してきたセレウコア軍を迎えようとしているときだった。  天からふいに出現した炎の柱は、双方の軍勢をまきこんで大爆発を引きおこした。天から降ってきた月の破片が、クナの都を一夜にして|灰《かい》|燼《じん》と化した光景を思わせるものだったという。  すべてが粉々に|砕《くだ》け散り、すりばちのようにあいた大穴には、生き残った者はひとりもいないと伝えられた。  離れたところから爆発を目撃した山岳民のあいだでは、炎の柱の中に老いた|魔術師《まじゅつし》の笑い声を聞いたというまことしやかな話もささやかれた。  チェルケンは空間のわざの座標を、ナクシットの聖地へとあわせた。  都とともに滅びようといっときはもくろんだが、結局は同胞たちの都を破壊するのにはしのびなく、最大の敵を死出の道連れに選んだのだと思われる。  その事実をのちに知ったとき、キルケスは涙し、手段を選ばなかったとはいえ、偉大だった同胞の魔術師に感謝を捧げた。  都はしばらく恐慌状態だったが、次の日の午後にはなんとか落ちついた。  神殿の前の広場や、大通り沿いの難を|逃《のが》れた|館《やかた》が、|怪《け》|我《が》|人《にん》や家を失った人たちの臨時の収容場所となった。  そうしたときに|都人《みやこびと》をなだめ、|導《みちび》いたのは、足を折って歩けなくなったキルケスではなく、セナ=ユリア姫と彼女に|仕《つか》えていた|侍《じ》|女《じょ》たちである。  セナ=ユリアはおそれもなく|瓦《が》|礫《れき》の中を行き、動揺した都人たちひとりひとりに声をかけた。|高《こう》|貴《き》な姫君みずからおもむいてのなぐさめに、人々も感激し、気力を取りもどし、すすんで|復《ふっ》|興《こう》に全力をかたむけた。  神殿や小宮殿が|崩《くず》れ、よりどころを失いかけていた都にとって、セナ=ユリアは文字どおりの希望の光となった。  生き残ったチェルケンの配下や、神殿の神官たちではなく、彼女こそが都に君臨する主人であると、はっきりあらわれた形でみなが認めはじめていた。  もとよりラウスターの|由《ゆい》|緒《しょ》正しき王女として、神殿の|巫《み》|女《こ》として、あがめられていた彼女ではあったが、以前にはまだ形式的なところもあり、|象徴《しょうちょう》にすぎなかった。  チェルケンの死によって、彼女は飾りものではなくなり、確固たる地位についたといえる。  この誇り高く、孤独な姫君にとって、新たな道はしめされた。  小宮殿から救いだされてから、彼女を支えていたのは、王族として都の危機に対処しなくてはいけないという強い使命感だった。  勇気をふるいおこし、その大いなる責務をはたしているうちに、彼女は生きる目的と喜びを見いだした。混乱と絶望のあとで、ようやく本来の道を見つけだした彼女の表情は、かつてとは別人のように生き生きと輝いていた。 「あなたも、石の下敷きとなって|亡《な》くなったと伝えられていますよ」  エリアードは相棒にささやいた。 「そういうことにしてくれと、キルケスに頼んだんだ。そのほうが同胞たちにとっても、わたしにとってもいいからな」  大通りにうずくまる怪我人たちを励まして歩くセナ=ユリア姫を、キルケスの館の窓からながめながら、リューは気楽に応じた。  以前に|刺《し》|客《かく》から切りつけられたあたりを、また火の粉で|火傷《や け ど》し、彼は肩から布で左腕を|吊《つ》っていた。 「でも聞いたところによると、キルケスがそれを広める前に、姫君みずからが悲しみをこめて、あなたの死を語って歩いたそうですよ、災害にあった人々を見舞うついでにね——新婚数日で|寡《か》|婦《ふ》となった彼女には同情が集まり、その|気丈《きじょう》な姿にみなは涙したらしい。かなり尾ひれがついて、|都人《みやこびと》の語り草になってますよ」  小さくエリアードは笑った。  それを聞きのがさず、リューは相棒をにらみつけた。 「何がおかしい? セナ=ユリア姫にも頼まなければと思っていたんだ、ちょうどいい展開だ」 「あの姫君なら、ひとりでも大丈夫ですよ。あなたよりもずっとしたたかに、都を治めていけるでしょう」 「どこか言い方にとげがあるな。婚礼と、その前後のいきさつはくわしく話しただろう——それとも、|居《い》|酒《ざか》|屋《や》でのことをまだ根にもっているのか」 「とげなんてありませんよ。ひとりで新たな道を踏みだした彼女を見つめているあなたの様子が、どこか残念そうに感じられたから、つついてみただけですよ」 「形式だけだったが、婚礼をあげた相手だ。気にならないといったら|嘘《うそ》だろう」  |怪《け》|我《が》してないほうの腕で、リューは相棒の肩を抱いた。そうしていると無事に再会できた喜びが、あらためてわいてきた。 「本当に、形式だけだったのですか——正直なところ、|亡《な》くした夫君についての|哀《あい》|悼《とう》を切々とうったえたという姫君の話には、|妬《や》けましたよ。人づてに聞いただけですが、芝居などではなく、最愛の人を亡くしたようでした」  エリアードはまだ疑っているような視線を投げかけた。 「何度も誓っただろう、指一本ふれてないぞ——チェルケンにあやつられていたことも、ちゃんと説明したはずだ」  |新《にい》|床《どこ》でのセナ=ユリアの態度にはまだ不明なところがあったにしろ、リューは断言した。彼の記憶にあるかぎりでは、本当に何もしていないし、彼女も無礼なことは何もなかったと言っていた。  けれど、彼女の|眼《まな》|差《ざ》しに、見まごうことのない愛情があらわれていたのも確かだったように思えた。  理解できないことではあるが、あやつり人形の彼を、あの清純な姫君は真剣に愛していたらしい。そうでなければ、新床の次の朝に死のうとこころみるわけが説明できなかった。  新婚の夫を|亡《な》くしたと思うことで、あの誇り高い少女はすべてをふりきり、本来あるべきみずからの道を歩もうとしているにちがいない。  そう思うと、リューはそのいじらしい心根には打たれるものがあり、遠くからこうして見守りたくなるのだった。  未練ではないが、|贖罪《しょくざい》のまじった複雑な思いを、どう相棒に説明しようかと迷っているうちに、彼はセナ=ユリアに近づく長身の人物に気づいた。 「おい、あれはグリフォンの野郎じゃないのか」  |侍《じ》|女《じょ》たちとともに|怪《け》|我《が》|人《にん》を見舞うセナ=ユリア姫に、グリフォンは護衛するようについていた。 「動けないキルケスに頼まれて、姫君の身に危害がおよばないよう、気をくばっているそうですよ。まだよからぬことをたくらむチェルケンの配下はいますし、|刺《し》|客《かく》がまぎれこんでいるかもしれないということで」 「あいつが表に出てもいいのか、セレウコア皇帝の弟のくせに」 「ええ、わたしもいちおうはとめたのですけれど、半分は〈月の民〉の血を引いているからかまわないと——かなり思いつめていらしたようですね」 「思いつめるとは、何をだ?」  エリアードはあきれたように相棒を見た。 「意外と|鈍《どん》|感《かん》な人ですね。あの女性が大の|苦《にが》|手《て》だと言っていた人が、素性を知られる危険もかえりみず、自分から姫君の番犬をつとめているわけですよ」  窓ごしにながめているだけでも、グリフォンの強い|眼《まな》|差《ざ》しが、姫君に釘づけとなっていることは見てとれた。 「あなたといっしょに姫君を救出に行き、そのときにひとめぼれしたそうですよ、つつましやかで美しく、亡き母上にそっくりだとかで——今朝、護衛のために出かけようとしたところ、あのグリフォン殿が剣を忘れていこうとしたんです。いつも|肌《はだ》|身《み》はなさず持っていた、例の長剣を、ですよ。これはただごとではないと、確信しましたね」  ほほえましそうにエリアードは言ったが、リューは気味悪そうに|眉《まゆ》をしかめた。 「何が母上にそっくりだ。リウィウスの王族で、わたしに似ているんだったら、セナ=ユリア姫に似ているわけがない」 「まあ、そのあたりは追及しなくてもいいじゃないですか」 「いいかげんな野郎だ」  小声でリューは文句をつけた。 「見方を変えれば、これで姫君の治めようとする同胞たちの都は、セレウコアと手を結ぶことも可能になるわけです——うまくいくよう、わたしたちも陰ながら祈ってあげましょう」  八方うまくいったというわけだが、リューはあまり満足とはいえない|面《おも》|持《も》ちで黙っていた。 「おそらく都のほうはやっていけるでしょう。キルケスもついてますしね——それで、わたしたちはどうしますか。|歓喜宮《かんききゅう》を発つときには皇帝から、あなたとふたりで、またかならず立ち寄ってほしいといわれてきたのですが」  |厚《こう》|遇《ぐう》してくれた皇帝に念を押されたことだったから、エリアードは意向を尋ねてみた。 「とんでもない、ごめんだ——せっかくこちらは逃げたというのに、また結婚させられそうになったら困る」 「では、東にもどるのは無理ですね」 「セレウコアの者が行き来する範囲はさけたいな。ベル・ダウの北はどうだ。商いは細々とおこなわれているが、あまり交流はないと聞いている」 「予備知識が|皆《かい》|無《む》というのもなんですね。さりげなくキルケスにでも尋ねてみましょう」  新しい地には不安もあったが、好奇心と未知なるものへの期待がいつも彼らを旅にかきたてた。  また気ままな放浪の旅がはじまるのだと思うと、今までの災難は記憶の隅に追いやられ、心おどる思いがもどってきた。 「——ベル・ダウの北に行くんですって?」  足音をしのばせて入ってきたもと|女泥棒《おんなどろぼう》が、いきなり背後から声をかけた。  ふたりは不意をつかれ、|怯《おび》えたようにふりかえった。 「どこでもいいけど、黙って行ってしまわないでね。そんなことをしたら、世界の果てまででも追いかけてって、ののしるわよ」  イェシルの横には、小柄なアヤもにやにやしながら立っていた。  ほかに気をとられて、彼女たちのことはすっかり忘れていたふたりは顔を見あわせた。  街道沿いの小さな町アルルスで出会ったこのふたりも、さしたるわけもなく、ここまで彼らについてくることになった。なんとも不思議な、くされ縁だった。 「君たちはどうするんだ、セレウコアかアルルスにもどるのか」  以前の気やすさで、リューは尋ねた。 「考えてないわ、そのときの気分しだいよ」  首をひねってイェシルはつぶやく。 「わたしたちが北に行くとしたら、どうするんだ、ついてくるつもりなのか」  半分は|牽《けん》|制《せい》しながら、ついてくるなら仕方ないかなと、リューは確かめてみた。まだどこか、彼女とは別れがたい思いがあった。 「ついていくとしても、あなたたち[#「あなたたち」に傍点]にじゃないわよ。あなた[#「あなた」に傍点]に、でもないわ。誤解しないでね」  イェシルは彼と対抗するように、エリアードのほうに寄りそった。軽く相棒の肩を抱くようにしていた彼の腕と交差するように、彼女も負けじと腕をまわした。  両側からつめよられる形となったエリアードは、おとなしくされるがままになっていた。 「結局、あなたがいつか警告したとおりになったわ。どんな女もあなたを素通りして、あなたの相棒のほうに夢中になるって——ごめんなさい、例外じゃなくて、悪く思わないでね」  神妙にイェシルはあやまった。 「なんだって——?」  リューはあらためて、すましている相棒と彼女を見くらべた。  そういえば再会をはたした|居《い》|酒《ざか》|屋《や》の二階でも、イェシルは気になることを言っていた。すぐにいろいろあって、わずかなひっかかりを残しただけで、今まで忘れていた。 「本当なのか」  まったく悪びれず、ほほえみすらうかべている相棒に、リューは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に問いかけた。 「たまにはわたしも|生《き》|真面目《ま じ め》を返上して、あなたの|真《ま》|似《ね》をしたくなることがあります——こんなときあなたならきっと、|能《のう》|天《てん》|気《き》に考えてるんじゃないかと思うんです」 「どんなふうにだ」 「両手に花だと」  左側で|眉《まゆ》をしかめるリューと、右側でくすくす笑っているイェシルとを交互に見つめながら、エリアードは告げた。これでやっと|一《いっ》|矢《し》むくいることができたと。     グリフォンの求婚(後日談) 「——君のうるわしき髪は銀の細糸、誇り高き|額《ひたい》は新雪の純白、やわらかき|眉《まゆ》は優美な三日月、|神《こう》|々《ごう》しいまでの白銀の|眼《まな》|差《ざ》しは——ああ、わが恋する心をせつなくかき乱す」  部屋を歩きまわっていたグリフォンは、そこで足を止めた。 「かき乱す[#「かき乱す」に傍点]、よりは、かき鳴らす[#「かき鳴らす」に傍点]、のほうが詩的だぞ。そうした場合、恋する心は楽器にたとえ、かのひとの眼差しを名奏者の指先にたとえてみようか——いや、だめだ、そんなたとえはわかりにくい」  誰も聞いている者はいなかったが、彼は声に出してつぶやき、髪をかきむしった。 「ああ、|修辞学《しゅうじがく》をちゃんと学んでおくべきだった——いや、しかしいかなる|麗《れい》|句《く》も、かのひとの美と気品を十分にあらわすことなどできるまい、この地上のどんな言語も」  |目《ま》|蓋《ぶた》の裏にやきついた|乙《おと》|女《め》の姿を、彼はいつものごとく、恋の|陶《とう》|酔《すい》とともに思いうかべた。  セナ=ユリア姫、青い都の|高《こう》|貴《き》な|巫《み》|女《こ》。  初めて彼女とあいまみえたのは、|崩《くず》れかけた小宮殿の中から救いだしたときである。  負傷したキルケスに頼まれ、彼はリューとともに彼女の救出におもむいた。  神殿のうしろ半分を吹き飛ばした火の柱が、おさまってまもないころだ。まだ周辺の人々は右往左往していて、ふたりをいぶかしむ余裕のある者もいなかった。  奥まった部屋のひとつで、ふたりは彼女を見つけた。崩れた屋根の一部が|扉《とびら》を押しつぶし、|牢《ろう》|獄《ごく》のようになった部屋にひとり、彼女はたたずんでいた。  ふたりは力をあわせて石をどかし、なんとか人ひとり通れるくらいの|隙《すき》|間《ま》をつくった。  セナ=ユリア姫はとりみだした様子もなく、ゆっくりとそこから出てきた。  かきわけた長い銀の髪のあいだから、彼女の|凜《りん》とした|面《おも》ざしが見えた。しとやかでありながら、どこか痛ましくもあるその表情に、グリフォンは胸をつらぬかれるような思いをした。  昔、彼の|薄《はっ》|幸《こう》の母親が、よくそんなふうな表情をしていた。ただ誇りだけをもって、|苛《か》|酷《こく》な運命に立ち向かうかのような。  |容《よう》|貌《ぼう》は異なっているのにもかかわらず、彼はセナ=ユリア姫の上に、母親の聖なる|面《おも》|影《かげ》を見いだした。  まわりからどう笑われようと、彼の理想は|亡《な》き母だった。思い出の中で美化され、|象徴化《しょうちょうか》された母親ではあるにしても。  彼はそのとき、恋に落ちた。  セナ=ユリア姫はいっとき顔をあげ、彼とその背後にいたリューのほうを見つめた。そしてすぐに目をそらし、出口に向かって歩きはじめた。  |瓦《が》|礫《れき》に足を取られないようにと、グリフォンは彼女にそっと手をさしのべた。  彼女はそれをふりはらい、|侍《じ》|女《じょ》にでも言うような口調で、助けられた礼を告げた。やつれてはいたが、|高《こう》|貴《き》な身にふさわしい|気位《きぐらい》の高さが、彼女を|鎧《よろい》のようにおおっていた。  いっそう彼は、この|気丈《きじょう》な姫君に魅せられた。  都の復旧作業のあいだ、グリフォンはなかば|強《ごう》|引《いん》に、姫君の護衛をかってでた。  |都人《みやこびと》を励ますためにおもむくセナ=ユリアのうしろには、いつも彼の大柄な姿があった。高貴な姫にかしずく古風な騎士のような態度で、彼は護衛をつとめた。  役目を終え、姫君とわかれると、彼は部屋にこもり、求婚の文句をひねりだすのに|懊《おう》|悩《のう》していた。  これまで兄の皇帝から言われても、彼は本気で身を固めようなどとは考えてみたこともなかった。  ナクシット教団がおとなしくなったら、彼はまた、あてのない放浪の旅に出るつもりだった。  重臣の娘との縁談をもちこまれても、話すら聞かずにことわってきた。どちらかというと女性とは口をきくのも|苦《にが》|手《て》な彼である。  ただひとりの例外は、ドゥーリスの修行仲間のヤイラスだけだった。双子の弟ウィリクがいたせいもあったが、理知的できっぱりしたヤイラスひとりが、彼の女性への苦手意識をとっぱらってくれた。  今のセナ=ユリアへの想いは、数年前のそのときと通じるようで、異なっていた。  しかし、あれこれ思いかえして分析する心の余裕は、今の彼にはなかった。  思いこんだら突進する彼の頭を占めているのは、どのようにこの燃える想いを伝え、求婚するか、のみだった。 「——かぐわしき|肌《はだ》は青白き月の照りかえしのごとく、ひと指たりとも、それにふれた者は熱い想いに|火傷《や け ど》する」  姫君の美をたたえる文句を、グリフォンはまたひねりまわしはじめた。  セレウコア皇家の正式な求婚では、まず相手のすばらしさを、できるかぎりの形容句で|誉《ほ》めなければならなかった。その誉め言葉の多い少ないで、格式の高さが決まるならわしだ。  古くから伝わる形式的な作法で、歴代の皇帝ですら|律《りち》|儀《ぎ》に守る者もいなくなっていたが、彼は知るかぎりの最高の方法で姫君に求婚するつもりでいた。 「その|面《おも》ざしに輝くのは、純粋に造形的な美のみではなく、内面より匂いたつ高貴な誇り高い|魂《たましい》の——ううむ、どうも散文的すぎるな」  誰かが近づいてくる|気《け》|配《はい》に、グリフォンはつぶやくのをやめた。ふりむくと、ややあきれ|気《ぎ》|味《み》に腕組みしたエリアードが立っていた。 「おお、あなたか、何かあったのか」  まだ心ここにあらずといった調子で、グリフォンは言った。 「やっとこちらに注意を向けてくれましたね、いつになったら話ができるのかと、さきほどから待っていたのですが」 「さきほどとは、いつからだ」 「姫君の眼もとの美しさをたたえるところからですよ。|妙《たえ》なる|音《ね》|色《いろ》の楽器にたとえるか、|魅《み》|惑《わく》の矢を放つ弓にたとえるか、悩んでらしたあたりですね」 「聞いていたのか——あなたもひとが悪い」  さすがにグリフォンは赤面した。 「|扉《とびら》の向こうにいても、じゅうぶん聞こえますよ。あまり|邪《じゃ》|魔《ま》はしたくなかったんですが、緊急の用なので——」  話すなら今だと、エリアードは早口でつづけた。 「セレウコアの調査隊とおぼしき一行が、ベル・ダウを越え、こちらの方面に向かっているそうです。エラス将軍|率《ひき》いる|討《とう》|伐《ばつ》|隊《たい》は|行《ゆく》|方《え》知れずで、ナクシット教団の聖地も|壊滅状態《かいめつじょうたい》ですからね。皇帝陛下はあなたの身も案じておられると思いますよ」  現実にひきもどされ、グリフォンは黙りこんだ。  エリアードが言うように、のんびりと求婚の文句を考えていられる事態ではなかった。  ひとつのことに|没《ぼっ》|頭《とう》すると、ほかのことが考えられなくなるのが彼の長所でもあり、欠点でもあった。このなみなみならない|執着心《しゅうちゃくしん》と集中力のおかげで、観相師の高位の資格を得ることもできたのだが、今のように|弊《へい》|害《がい》が出ることもある。 「……さっそく使いを出そう。まだセレウコアにここを知られるのはまずいゆえ、誰か〈月の民〉とはわからない者を選んで、兄上にとりあえずの報告をせねば」 「どういった報告をするのですか。ナクシットの聖地も、セレウコアの討伐隊も、|得《え》|体《たい》の知れない何かの力で|壊《かい》|滅《めつ》したと伝えるわけですか」 「今のところ、そう報告するより仕方あるまい——いずれゆっくり、兄上にはわたしから直々に打ち明けよう」  どこか遠くの出来事のように、グリフォンはしめくくった。そのとき彼の頭にあったのは、セナ=ユリア姫との婚約をどうやって兄に報告しようかというものだった。 「こちらとしても仕方ありませんね、セレウコアのことはあなたやキルケスにまかせるしか」  エリアードは、小さくため息をついた。グリフォンの|尋常《じんじょう》ではないのぼせようはわかっていたとはいえ、これではかんじんの話がきりだしにくかった。  彼らふたりは早々に都を発つ心づもりでいたが、キルケスに引きとめられ、グリフォンの様子をみて、のばしのばしにしてきたのである。 「どうした、まだ話がすんでないのか」  |扉《とびら》の外で|苛《いら》|立《だ》ちながら待っていたリューが、たまらず中へ入ってきた。 「もう少しですから、入ってこないで」  小声でエリアードは押しとどめたが、こちらに目をやったグリフォンの血相が変わった。 「かまうもんか、あの色ぼけ[#「色ぼけ」に傍点]は多少、刺激してやればいいんだ」 「なんだと、聞き捨てならん、もう一度、言ってみろ」  肩をいからせ、グリフォンはつめよった。 「色ぼけだと言ったんだ。自分の世界にひたるのもけっこうだが、少しはまわりの|迷《めい》|惑《わく》も考えるといい」  リューは平然とにらみかえした。彼にしてみれば、何もやましいことをしていないのに、どうしてグリフォンの|機《き》|嫌《げん》をうかがわなければならないのかと、不満でならなかった。  もともと相性のあまりよくない|間柄《あいだがら》だったが、セナ=ユリア姫をはさんで、このところいっそう彼らの関係は悪化していた。  熱愛し、|崇《すう》|拝《はい》する姫君を悲しませ、不幸にした張本人だと、グリフォンは彼を一方的に怒っていた。|都人《みやこびと》の前で、姫君と婚礼をあげた相手に対する|嫉《しっ》|妬《と》も、いくらかまじっていた。 「あなたの口から、まわりの迷惑などという人並みなせりふが出るとは思わなかったぞ。今まで、あなたの軽はずみさから、どれほどわれわれが迷惑をこうむったか、数えあげればきりがないというのにな」 「それは申しわけなかったな。でもまあ、安心してくれ。この先はあんたに|迷《めい》|惑《わく》をかけるようなことはない——わたしたちは明日にでも都を出るからな。互いに|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》な思いをするのも、今日かぎりだ」  せいせいするといわんばかりに、リューは宣言した。  エリアードは困ったように両者をながめていたが、ずっと言いだしかねていたことを相棒が言ってくれたことには感謝していた。  そろそろ都にとどまるのも限界だと、彼も考えていた。  災害をこうむった都も落ちつきつつあり、彼らふたりをいぶかしむ者も出てくるにちがいなかった。とくにリューのほうは、|瓦《が》|礫《れき》の下敷きとなって死んだはずの身である。 「都を出ると——それはまさか、本気ではあるまいな」  とまどったように、グリフォンは問いかけた。 「まったくの本気だ。明日というのも、遅すぎたくらいだな」 「キルケスにもいちおう、話はしてあります。あなたにも早めに伝えたかったのですが、なかなか機会が見つからなくて」  そっけないリューの返答を、エリアードはあとから補足した。 「姫君はどうなる、こんな状況のもとに、あの|可《か》|憐《れん》な姫君を放りだしていくというのか——なんと|無《む》|慈《じ》|悲《ひ》な、|冷《れい》|酷《こく》な」  グリフォンは|唇《くちびる》をふるわせた。 「死人に無慈悲も、冷酷もあるもんか。セナ=ユリア姫自身の口から、わたしは死んだと|都人《みやこびと》の前で告げられたんだ。略式だが、|葬《そう》|儀《ぎ》もおこなわれた。死人がうろうろしていては、かえって向こうも迷惑するだろうよ」  |逆《さか》|恨《うら》みもいいかげんにしてくれと、リューは声を荒らげた。実際、セナ=ユリアは彼の存在をまったく無視していたし、キルケスを通じて、早々に都を立ち去るように言われていた。  リウィウスの王族としての彼しか、セナ=ユリアはみとめようとしなかった。彼女の愛した|高《こう》|貴《き》な新婚の夫は、見せかけだけでなく、本当に|葬《ほうむ》りさられたのである。  口には出さなかったが、彼はかなりそれに傷つき、|理《り》|不《ふ》|尽《じん》だと思っていた。 「わたしたちがいなくなってからが、あなたの腕の見せどころですよ、グリフォン殿——あなたが姫君の力になってあげればいいんです。あなたにはそれだけの力もありますし」  横から、エリアードはなだめた。 「しかし、それは……」  たしかに姫君の心を勝ちえるには好都合かもしれなかったが、グリフォンはとても素直にうなずけなかった。  シェクの町で見いだし、アルルスからはずっといっしょに旅してきたふたりと、ここで別れることになると彼は考えていなかった。 「とにかく、わたしたちは明日にでも、出発する——とめても、むだだ」  リューは相棒をうながして、部屋を出た。  小宮殿にいるキルケスのもとに、思案の末、グリフォンはおもむいた。  まだ|怪《け》|我《が》|人《にん》や、家をなくした人々がちらほらうずくまっている大通りを、彼は|大《おお》|股《また》でつっきっていった。  ほかの同行者たちはなるべく人目をさけ、キルケスの|館《やかた》にこもっていたが、彼だけは堂々と外を歩きまわっていた。  波打つ|赤褐色《せきかっしょく》の髪と浅黒い顔の、背の高いその姿はひどく目立ち、注目を集めた。セナ=ユリア姫の護衛として、つき従っていた彼を覚えている者もいた。  いったい何者だろうという視線をものともせず、彼は小宮殿に正面から入っていった。壁の|崩《くず》れかけていたところは修復され、なんとか宮殿らしい|体《てい》|裁《さい》だけはととのえられていた。  キルケスは姫君の相談役として、このところずっと小宮殿につめていた。  神殿にいたチェルケンの配下の多くは爆発にまきこまれ、助かった者は数えるほどだったから、都の政務にある程度つうじているキルケスは何かと頼りにされている。  足を怪我して、あまり動きまわれないが、キルケスは姫君の片腕として力をふるっていた。  グリフォンが足音高く踏みこんでいったのは、原形もとどめないほどに壊れた神殿の奥半分をどうするか、キルケスと生き残った神官たちが相談していたところだった。 「外で待たせてもらう」  グリフォンはそう告げて、|扉《とびら》の外で待っていた。  彼がセレウコア皇帝の弟であるとは、まだ|都人《みやこびと》には知られていない。それが都にとって吉とでるか、凶とでるか、キルケスにはわからず、とりあえずは黙っていることにしていた。  キルケスは話を早々にきりあげ、ただならない様子の彼を迎えいれた。 「さっそくだが、おふたりが都を出ることは聞いているのか」  神官たちがいなくなると、性急にグリフォンは尋ねた。 「ええ、うけたまわってます——いちおうはおとめしたのですが、ご意志がお固いようでしたゆえ、説得はあきらめました」  その用件かと、キルケスはやわらかく応じた。 「あっさり言うな。〈月の民〉はあの|高《こう》|貴《き》な方々を、黙って出ていかせるつもりなのか」  グリフォンは|苛《いら》|立《だ》っていた。もともとここ数日、気持ちが高ぶっていたところに追いうちをかけられたようなものだ。 「仕方ないでしょう、リューシディク殿には都をたばねていくおつもりがないのですから——わたくしも初めはとまどったのですが、|虜囚《りょしゅう》となられているあいだにいろいろお話しして、あの方のお考えもわかるようになりました。あの方は何をおいても、ただ自由であること、身分にとらわれずあるがままに生きること、だけを求めておられるんです」  穏やかにキルケスは告げた。 「それは、わたしも共感をおぼえるが、しかし……」 「都はどうしても、あの方を必要としているわけではありません。幸いにして、セナ=ユリア様が都の統治になみなみならぬ情熱をおもちですから、わたくしたちまわりの者が手をお貸しすればやっていけるかと存じます——お好きにさせてあげたら、いかがですか。もともとあの方には、リウィウスの王族であるということ以外に、都に対する責任は何もないのですから」 「責任など追及しているつもりはない、あっさり行かせてしまうおまえの姿勢に|納《なっ》|得《とく》がいかんのだ」 「グリフォン殿、わたくしは意外でしたよ」  キルケスはやや笑みをふくんだ調子でつづけた。 「ただならぬご様子で、あなたがいらしたときには、てっきり求婚のご決意を固められたのかと思いました」 「——求婚か、それはまだ、求婚のせりふや手はずが完全にできておらんのだ」  |矛《ほこ》|先《さき》を変えられて、グリフォンはやや赤面した。 「形をととのえてからなんでもはじめるのが、幼いころからのあなたのご性分でしたね。それはそれでよろしいが、こういったものは時機を|逃《のが》さないことが大事ですよ」  子供時代から知られているキルケスにそう言われると、グリフォンは返す言葉がなかった。  セナ=ユリア姫への想いで|悶《もん》|々《もん》としていたうえにまた、ふたりが出ていくと聞いて、彼はやや混乱していた。 「セナ=ユリア様は今、小宮殿のお部屋にいらっしゃいますよ。お悩みになるより先に、行動におうつしになってはいかがですか」 「妙だな、なぜ、けしかけるんだ」 「理由は大きくわけてふたつあります。ひとつには、セナ=ユリア様とあなたがうまくおいきになることは、わたくしにとっても、都にとっても望ましいことだからです。ですから、セナ=ユリア様の護衛をあなたにお願いしたり、わたくしのできるお|膳《ぜん》|立《だ》てはいろいろいたしました」 「もうひとつの理由というのは?」 「ここにいらして、あなたが真っ先に言われたのは、セナ=ユリア様のことではなく、リューシディク殿と副将のお方が都を出発されることのほうでした——あなたはご自分の道を決めかねておられるようですゆえ、求婚されるのでしたら早いほうがいいかと、|僭《せん》|越《えつ》ながらそう申しあげました」  キルケスは子供のころから見慣れたやり方でほほえんだ。  |歓喜宮《かんききゅう》から|失《しっ》|踪《そう》したときには手ひどく裏切られたとグリフォンは怒っていたが、こうしていると母親の代から忠実に|仕《つか》えてきた重臣にもどったかのようだった。  自分の道を決めかねているという|指《し》|摘《てき》は、たしかに当たっていた。セナ=ユリア姫への想いは真実だったが、彼は求婚を|承諾《しょうだく》されたのちのことをあまり深く考えてなかった。  知るかぎり最高に理想的な作法で求婚し、|愛《いと》しい姫君の返事をつつしんで待つ、それだけが馬車馬のように思いつめた彼の頭にあったことだ。  ふたりが都を出ると聞いて、どうして、いても立ってもたまらずキルケスのもとに来たのか、グリフォンは|合《が》|点《てん》がいった。  また気ままな放浪の旅に出ようとする彼らが、うらやましくてならず、できるものならいっしょについていきたくなったからである。  しかしセナ=ユリアが求婚を受け入れたなら、彼はこの都にとどまらなければならなくなる。その日の気分にまかせて、ふらりと旅に出ることなど二度と許されないだろう。  相反する思いに、グリフォンは髪をかきむしった。そうして意を決したように、キルケスのほうへ向きなおった。 「セナ=ユリア姫は、今ここにいらっしゃるのか。ご都合がよければ、すぐにでもお目どおりを願いたいのだが」 「いらっしゃいますよ。さきほどまで、わたくしどもと、神殿の建て直しについて話していかれたところですから——お取りつぎいたしましょう」  負傷した足をかばいながら、キルケスは|椅《い》|子《す》から立ちあがった。  青い石の|殺《さっ》|風《ぷう》|景《けい》な広間で、セナ=ユリア姫は待っていた。  グリフォンが入っていくと、姫君は臣下の者にするような軽い|会釈《えしゃく》でこたえた。 「お忙しいところを申しわけない、姫君」  最初の言葉を迷った末、彼はそう切りだした。あれほど練りに練っていたはずの求婚のせりふは、姫君を目の前にするとひとつも浮かんでこなかった。 「次の予定がつまっていますゆえ、早めに願います」  セナ=ユリアはそっけなくうながした。彼が護衛としてついて歩いたときと同じ、|威《い》|厳《げん》をたもった冷ややかな態度のままである。 「いきなりこのようなことを申しあげては、姫君のようなご身分の方には失礼にあたるやもしれぬが——」  グリフォンは|額《ひたい》の汗をぬぐった。 「いや、その前にわたしの身分を明かすべきだと思う——|亡《な》き母上が〈月の民〉であったとだけ伝えたが、真実を申しあげれば、母上はリウィウスの王族の姫だった、リューシディク殿の何代かのちの子孫にあたる」  それを聞いても、セナ=ユリアはとくに表情を変えなかった。言ったグリフォンのほうが浅黒い|頬《ほお》を赤くした。 「……父上は、セレウコアの前皇帝だ。すなわちわたしは、現セレウコア皇帝の異母弟という身分にある」  身分を捨てた|一《いっ》|介《かい》の観相師だとつっぱっていた手前、あらためて正式な|出自《しゅつじ》を名のるのは、彼としても気はずかしくてならなかった。しかし求婚するからには、〈月の民〉の姫君にふさわしい身分であることを告げなくてはいけない。 「今になってこのようなことを打ち明けても、姫君はあやしまれるかもしれぬが、けっして|偽《いつわ》りではなく——」 「知っていましたわ、とうに」  セナ=ユリアは|苛《いら》|立《だ》ったようにこたえた。  驚いて、グリフォンは姫君を見つめる。 「キルケスから聞きだしました——当然でしょう、素性の知れない者を護衛として、わたくしの身辺に置くことなどできません」 「それは、わたしが姫君のおそばにいることを許されたと解釈してよろしいのだろうか」  彼が一歩、前に踏みだすと、セナ=ユリアは柱に半身を隠した。恥じらっているふうをよそおっていたが、強い拒否の意志が|仕《し》|草《ぐさ》にあらわれていた。 「セレウコア皇帝の弟君として要求されるならば、都の政務をつかさどる者として許すしかありませんでしょう」  セナ=ユリアは目を|伏《ふ》せた。 「ちがう、誤解だ、姫君——身分を明らかにしたのは、|威《い》|嚇《かく》するためではない。あなたとこうした話をするのにふさわしい身であると、礼儀上、しめしたかったゆえだ」  激情にかられたグリフォンはかまわず進みでて、姫君の手を取った。求婚の作法も手はずも、とうに彼の頭からは吹きとんでしまっていた。 「わたしはここへ求婚におもむいた。キルケスにもすでに話をしてある——かの災害の夜、小宮殿であなたとまみえてから、お|慕《した》いもうしあげている。あなたこそ、わが夢の恋人、理想の妻と、ただひとすじに」  姫君のきゃしゃな手をにぎりしめ、彼は熱をこめて告げた。 「——放してください、人を呼びますよ」  顔をそむけ、セナ=ユリアは叫んだ。 「今しばらく、わたしの話に耳をかたむけてほしい。何も|無《む》|体《たい》なことをしようというのではないのだ。いきなりで驚かせたかもしれぬが、かの夜からほとんど眠れぬほどにあなたのことを想いつづけている、真実いつわりなく——」 「いやあ、誰か——誰か、来てえ、早く!」  無理やり手をふりほどき、セナ=ユリアは柱にしがみついた。  姫君の呼び声にこたえ、控えの間のような|脇《わき》の小部屋から、ほっそりした長身の影が現れた。 「悪いわね、あまり|不《ぶ》|粋《すい》な|真《ま》|似《ね》もしたくなかったんだけど」  青い衣に身をつつみ、細身の剣をさげたイェシルがほほえみながら言った。 「なぜ、あなたがここに……」  |苦《にが》|手《て》な彼女の思いがけない登場と、興奮のさめた恥ずかしさとでグリフォンは口ごもった。 「臨時の護衛に|雇《やと》われたの、そちらにいらっしゃる姫君から」  まだ柱の陰にいるセナ=ユリアを見やって、イェシルは悪びれずつづけた。 「筋としては、あんたに辞職願いを出すほうが先だったかもしれないわね。でもまあ、あんたとの仕事はいちおうけりがついたし、別の仕事を引き受けてもいいかと思って」 「護衛とは、しかし……」  グリフォンは長身のもと|女泥棒《おんなどろぼう》と、何もかも小づくりの|清《せい》|楚《そ》な姫君を見比べた。 「どうしましょう、セナ=ユリア姫、この者に何かおっしゃりたいことはありますか——それとも、問答無用で出ていってもらいますか」  そっと柱に歩み寄り、優しく気づかうようにイェシルはささやきかけた。  セナ=ユリアは顔を|伏《ふ》せたまま、彼女にだけ聞こえるように小さくこたえた。 「この先、二度と結婚する気はないと姫君はおっしゃられてます。相手がセレウコア皇帝の弟であっても、同じだと」  イェシルは通訳した。本当は、出てって、顔も見たくないとしか言わなかったのだが、姫君のつらく苦しい心のうちを知る彼女は言葉をおぎなった。  そもそも彼女が護衛を引き受けたのも、姫君への同情と共感からだった。 「最愛の夫君を|亡《な》くしたばかりですから、察してくださるとありがたい——それがあなたの求婚の返答です、グリフォン殿、思いやりと|繊《せん》|細《さい》さがあるなら、もうお引きとりください」  口調をあらため、イェシルは静かに申しわたした。 「亡くしたというのは表むきだけだ、強制的に結びつけられた頼りにならない夫君に見切りをつけたというのが、真実ではなかったのか」  未練がましいと思ったが、グリフォンはくいさがった。 「何が表で、何が裏か、言葉にしたのがどれだけ真実か——複雑なものなのよ、女心って」  イェシルは軽く受けながした。けれど姫君の前に立ちはだかり、誰も近づけないというふうに両足を踏みしめていた。  柱の向こうのセナ=ユリアはそのまま動こうとはせず、グリフォンは仕方なく退出した。 「あれでよかったのかしら、姫君」  |扉《とびら》が閉まってから、イェシルは確認した。  セナ・ユリアは小さくうなずいた。 「ちょっとかわいそうだったかもね。あの|堅《かた》|物《ぶつ》ったら、初恋の少年のようにのぼせあがってるんだもの」 「——男なんてみんな同じ、二度と信じない」  |高《こう》|貴《き》な姫君ではなく、年相応の少女らしく、セナ=ユリアはかわいく|唇《くちびる》をとがらせた。 「そんなふうに思ってる時期があってもいいわ。ずっと思っていたっていいし、|懲《こ》りずにまた信じてみてもいい」  姉が妹へ語りかけるように、イェシルはささやいた。  聖なる|巫《み》|女《こ》として、都の政務をになう身として、せいいっぱい|威《い》|厳《げん》をはりつめているセナ=ユリアだが、実際はまだ十七歳にしかならなかった。  チェルケンに仕立てあげられた人形だった彼女は、熱烈な恋によって、みずからの意志を開花させたばかりだ。|鎧《よろい》のように固く心をおおっても、ういういしい情感があいまからこぼれでるのをとめられなかった。  今のところ、イェシルが相手のときだけ、彼女は立場を忘れ、素直にふるまうことができた。  グリフォンの一行についてきたイェシルは、初めて彼女に気さくな調子で話しかけてくれた|歳《とし》の近い相手だった。はれものにさわるような|侍《じ》|女《じょ》たちや、いかめしい年配の世話係の誰も、けっしてそんなふうに接してくれなかった。 〈月の民〉とかけはなれた見かけをしているのにもかかわらず、彼女はこの|精《せい》|悍《かん》なもと|女泥棒《おんなどろぼう》に夢中になった。 「あなたなら、信じられる——ずっとそばにいて、無礼な男たちから守って」  柱の陰から出てきて、セナ=ユリアは背の高い彼女に抱きついた。女のものとは思えない筋肉質の締まった身体は、以前に寄り添ったことのある手ざわりを思い出させた。  まだ胸に焼きついたままの|面《おも》|影《かげ》を、セナ=ユリアは首をふって払いのけた。|幻《げん》|滅《めつ》し、見切りをつけたはずの相手だった。 「|雇《やと》われてるあいだだけよ、姫君——あたしは|出《で》|稼《かせ》ぎの|傭《よう》|兵《へい》ですからね」  力づけるように、イェシルは彼女の細い肩をたたいた。 「本当は、あ……あの人たちといっしょに行きたいのじゃないの。助けに来たのでしょう、あなたもあの人を」  セナ=ユリアはこわごわ尋ねた。ずっと気になっていて、口に出せなかった問いだった。 「いやがられてもついてって、|邪《じゃ》|魔《ま》してやろうかとも思ったけど、馬鹿馬鹿しくなってやめたわ。でもアルルスに帰るのもつまらないし、どうしようかと迷ってたところに、あなたから護衛を頼まれたの」 「もしかしたら、あなたがあの人の恋人だったの?」 「さあ、どうかしらね」  イェシルはあいまいにほほえんだ。 「|新《にい》|床《どこ》の夜に、あの人は夢うつつで名前を呼んだの、女の人の名だと思ったわ——絶望していたわたしは、それでよけいに、目の前が真っ暗になって、死にたくなってしまったの」 「エリーって、呼んだんでしょう、どうせ」 「そう、確かそんな名だったわ——誰なの、それ、あなたの本当の名じゃないの」  複雑な思いに口もとをゆがめるイェシルを、セナ=ユリアは不安にかられてゆさぶった。 「あたしじゃないことは誓ってもいいわ——グリフォンに言ったことも、まんざら断る口実じゃなかったわけね、まだ、|瓦《が》|礫《れき》の下敷きになった夫君が忘れられないなら」 「忘れるわ、忘れてみせる、王族の誇りにかけても」 「忘れるって意気ごんでいるうちは、忘れてないってことよ」  からかうようにイェシルはつづけた。 「いっしょに忘れましょう、経験からいって大丈夫、すぐ忘れられるわ——あたしの|雇《やと》われ期間が切れる前に、そういえばそんなこともあったなって思えるようになる」  けげんそうな|面《おも》|持《も》ちで見あげる|可《か》|憐《れん》な姫君に、イェシルは優しくほほえみかけた。  ちょうど気をきかせて、アヤが果実をしぼった飲み物を運んできた。イェシルのついでに、ちゃっかりアヤも|侍《じ》|女《じょ》として雇ってもらっていた。  キルケスの|館《やかた》の一室で、ふたりは長旅の荷づくりに励んでいた。ベル・ダウを越えて、北の国々をまわる心づもりだったので、軽装というわけにはいかなかった。 「馬のほうは明日、届けてくれることになってます。キルケスの紹介の仲買いだから、信用できるでしょう」  |糧食《りょうしょく》を点検しながら、エリアードは言った。 「山越えに適した小形種だぞ、まちがいないだろうな。馬の都合で出発がのびるのだけは……」  窓の外をながめていたリューは、そこで|唐《とう》|突《とつ》に言葉を切った。 「どうしたんですか、何か」 「やつが血相を変えてくるぞ、まっすぐこっちに向かってる」  通りをつっきる長身の姿を、リューは相棒に指さしてみせた。  その歩き方といい、|容《よう》|貌《ぼう》といい、遠くからでもグリフォンだとひと目でわかった。 「あまり|刺《し》|激《げき》しないでくださいね。|穏《おん》|便《びん》に明日、都を出たいとお思いなら」  よくない前ぶれのような気がして、エリアードは|眉《まゆ》を寄せた。 「心配するな。いまだかつてないくらい、友好的に接してやる。なにせ、あの野郎の顔を見るのも明日が最後かと思うと、うれしさのあまり、自然とそうなるさ」  あいかわらずリューは楽観的にかまえていた。  まもなく、|館《やかた》じゅうに響きわたりそうな足音をたてて、グリフォンが入ってきた。  求婚をにべもなく拒絶され、ただでさえ興奮していた彼は、旅用にそろえられた荷物類を目にして眉をつりあげた。 「——出発はわたしが許さぬ。こんな状態で、よくも自分勝手に出ていかれるものだな」  やつあたり|気《ぎ》|味《み》に、グリフォンは怒りをぶつけた。セナ=ユリア姫がまだ忘れられないでいるらしい相手が、こんな|薄情《はくじょう》でいいかげんな人間だと思うと、黙ってはいられなかった。 「姫君は|傷心《しょうしん》のあまり、二度と結婚は考えたくないとまでおっしゃっているのだ。はっきりと口には出されなかったが、無責任なあなたのせいで絶望なさっておいでなのだぞ」 「簡単にいえば、あんたはふられたわけか」  相棒の忠告も忘れ、リューも黙ってなかった。セナ=ユリア姫をはさんでは、まだわだかまりがあり、傷ついていたこともあったので、つい|過剰《かじょう》に反応してしまった。 「ふ、ふられただと、言わせておけば、この——!」  つめよろうとするグリフォンの前に、仕方なくエリアードは立ちはだかった。こうなることはだいたい想像がついていたとはいえ、彼は大きくため息をついた。 「ふたりとも頭を冷やしてください。あなたがたが言い争っていても、その問題については何も解決しませんよ」 「言い争うだと、妙な|因《いん》|縁《ねん》をつけてきたのはあっちだぞ。ふられた|恨《うら》みをぶつけてこられても、知ったことじゃない」  リューは手近な|椅《い》|子《す》に座り、仁王立ちするグリフォンを見あげた。  |仲裁《ちゅうさい》をあきらめ、エリアードは黙った。 「婚礼をあげた相手だというのに、あくまでも関係がないと逃げるのか、あなたは」  なおもグリフォンは追及した。 「関係ないものはないんだ。婚礼はわたしの意志ではなかったし、姫君には指一本ふれるどころか、ろくに話もしてないんだぞ」 「そんなことは信じられぬ。あの|清純《せいじゅん》な姫君がああまで、いいかげんなあなたのことを忘れられずにいるのは、何かあったにちがいない——あなたの手が早いのは、前々から実際に見ている」 「冗談じゃない、のぼせあがるのもいいかげんにしろ。忘れられないというのは、あんたを追いはらうための単なる口実だ」  |矛《ほこ》|先《さき》がまずいほうに向かったので、リューは懸命に否定した。相棒にあらぬ誤解をされたくなかったし、彼自身もつっこまれるとあやふやなところだ。  暗示にかけられていたとき、何かあったのかもしれないと、思いかえしてみて彼はときどき考えた。そうでなければ、|新《にい》|床《どこ》の夜のセナ・ユリアの態度は説明がつかなかった。  今も忘れられないという彼女の言葉が本当なら、この問題に関しては深入りすべきではないと思った。  ナクシット教団とセレウコア|討《とう》|伐《ばつ》|軍《ぐん》をまきぞえにして滅びたチェルケンに、今はキルケスも感謝を捧げていたが、彼としてはあらためて|恨《うら》みをぶつけたくなった。 「悪いな、どうも言いすぎたようだ」  にらみあいにけりをつけるように、リューはやや低姿勢に口をひらいた。 「姫君のことを考えたとしても、わたしは都にとどまらないほうがいいと思う。死んだ者がうろうろしていては、姫君の内心がどうあれ、政務に支障も出るだろう。おそらく結婚どころではないとつっぱねたのは、都のおかれたむずかしい状況や、セレウコアとのかかわりを考えて、神経質になっているのだろうよ」  せいいっぱいの|譲歩《じょうほ》で、彼はそうつけ加えた。 「たしかに、そういうことはあるやもしれぬな。わたしも少々、興奮しすぎていたようだ」  グリフォンも|大人《お と な》げない態度をみとめ、反省した。 「相手はまだ十七歳の少女だ、あせらず時を待つことだな。身分のつりあいもとれ、キルケスも都のためになると喜んでいた縁組みだ。また機会はある」  明日の出発のことも考え、リューはなだめておくことにした。  しかしそれは逆効果だったようだ。グリフォンは彼の前に、いきなり|膝《ひざ》をついた。 「そのとおりだ——それゆえ、あなたには今しばらく、都にとどまってほしいのだ。時間をおいて、姫君にはもう一度、求婚するつもりでいる」 「いったい、あんたの求婚とわたしとなんの関係があるんだ。恋の仲立ちでもやれっていうのか。それとも、わたしとちがってあんたが頼りになるとわかるよう、引き立て役にでもなればいいのか」  無理やり抑えこんだ|苛《いら》|立《だ》ちが再燃して、リューはまた声を荒らげた。 「おお、わかってくださるのか、自分からは言いだしにくかったが、そこまでおっしゃってくれるなら話は早い」  グリフォンはしらっとこたえた。  かっとしたリューは|椅《い》|子《す》を蹴倒しそうになったが、エリアードに肩を押さえられ、かろうじて思いとどまった。 「あなたのお立場はよくわかりました。明日の出発に関しては、この人とよく相談してみますので——今日のところはあなたも興奮しておられるようだし、もう少し落ちついてから話をしましょう」  ものやわらかに、しかし有無を言わせずエリアードは告げた。  グリフォンもさすがに恥ずかしくなったのか、こぶしをにぎりしめて立ちあがった。  エリアードになだめられながら、彼はしぶしぶ出ていった。まだ話したりないかのように、何度もふりかえりながら。 「相談するとは言ったが、出発の予定を変える気はないぞ」  |扉《とびら》がしまると、リューは即座に言った。 「わかってます、わたしもこれ以上はとどまるべきではないと考えてますから」 「では、どうするんだ、無理やり出発するのか」 「キルケスに相談して、今夜のうちにでも発てないかと思うんです。馬のほうはなんとか手配して——いかがですか?」  かすかにほほえんで、エリアードは相棒をのぞきこんだ。 「なるほど、いい考えだな」  感心するようにリューはつぶやいた。やはり彼もグリフォンにあおられて、冷静さをなくしていたのか、そうしたやり方は思いつかなかった。 「わたしとしても、これ以上、セナ=ユリア姫をはさんで、あなたとグリフォンがやりあうのを見たくないので、強行手段をとろうと考えたんです」  冗談とも|皮《ひ》|肉《にく》ともつかないように、エリアードはささやいた。 「|勘《かん》ぐられるようなことは何もないぞ」  |矛《ほこ》|先《さき》がこちらに来たと、リューは身がまえる。 「何があったということではなくて、グリフォンへの対抗意識が導火線になりかねないのを心配したんですよ」 「なるものか——ほんとうに当分は、女と名がつくものはこりごりだ」  心からリューはつぶやき、座ったままの姿勢で相棒を見あげた。 「おまえこそ、|女泥棒《おんなどろぼう》に別れは告げてきたのか。わたしのことはどうでもよく、おまえのことが心配だから、彼女はここまでついてきたのだろう」 「ええ、昨日のうちに伝えてきました」  やりかえされて動じたふうもなく、エリアードはいつもの穏やかなほほえみをうかべていた。 「いっしょに行くとは言わなかったのか。このあいだの感じでは、まだまだ別れがたい様子だったがな」  ふたまたをかけられ、相棒のほうを選んだイェシルの態度には、責める権利はないとはいえ、リューは愉快でなかった。  セナ=ユリア姫のことをふくめて、どうしてこんなめにあわなくてはいけないのかと、彼は|理《り》|不《ふ》|尽《じん》さをかみしめていた。|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》、|因《いん》|果《が》|応《おう》|報《ほう》という言葉が頭をよぎらないでもなかったが、彼は相棒をにらみつけた。 「彼女は姫君直属の衛兵として働くことに決めたそうですよ。アヤもいっしょに|雇《やと》ってもらったらしい」  出発することを伝えたとき、イェシルはこう言った。  振り子はそのときどきで一方にかたむいたこともあったけれど、結局は、ふたりのうちひとりを選ぶことができないと。  けれどそれを相棒に伝える気は、今のところエリアードにはなかった。 「しばらくはこの〈月の民〉の都にいるから、気が向いたらまた立ち寄ってほしいとも言ってましたね」 「気なんか向くものか」 「まあそう言わず、ここはわたしたちの同胞が築いた都でもあるのですから——故郷を失ったわたしたちが、ひとつくらい故郷に似たところをもっていてもいいじゃないですか、立ち寄るかどうかは別にしても」  自分でつけた傷をいやしてやるように、彼は優しく、相棒の|金褐色《きんかっしょく》の髪を|撫《な》でた。  夜明け前に、ふたりはキルケスの|館《やかた》を出た。  グリフォンは昼間の疲れからか、ぐっすりと寝入っていた。  うまくなだめておいてくれと、彼らはキルケスに頼んでおいた。  都や姫君のこともあとはまかせてほしいと、キルケスはこころよくふたりを送りだしてくれた。キルケスには、〈月の民〉の|思《おも》|惑《わく》で、リューをこの一連の出来事にまきこんだ罪ほろぼしの気持ちがあったようだ。  陽が昇るころには、都のはずれで山越え用の馬を調達し、ふたりはベル・ダウの北をめざしていた。 「今度行くところでは、やっかいごとがないといいですね」 「いつもそう願ってるんだが、かなった|例《ためし》がないな」  のんびりとそんな軽口をたたきながら、彼らはひさしぶりの気ままなふたり旅を|満《まん》|喫《きつ》していた。  しかし、そのあとをすさまじい勢いで追っているひとつの影があったことを、ふたりは幸いなことに、しばらく知らずにいた。 [#地から2字上げ]『ムーン・ファイアー・ストーン』完     あとがき 『ムーン・ファイアー・ストーン』の完結編であります。  早いもので、もう五巻めとなってしまいました。『あとがき』も五回(他社のもふくめれば、すでに八回)書いたことになります。回を重ねるごとに、どうしてもワン・パターンになってきますが、『あとがき』愛好家の誇りにかけても、毎巻おもしろくてためになる『あとがき』をめざして|精進《しょうじん》いたします。  今回は五部作の完結編ですし、ここまでおつきあいしてくださった感謝のしるしとして、特別企画満載の豪華版『あとがき』をお送りいたします。  したがって、『ムーン・ファイアー・ストーン』五部作を読了ずみであること、を前提として話をすすめてまいりますから、この巻だけを立ち読みしている方は(いるでしょう、たぶん)、すみやかに本を閉じ、本編のほうを最初からお読みになることを期待します。  特別企画の中身は、  その1 九州旅行レポート(付・アトリエ訪問記)  その2 イラスト担当・|紫《し》|堂《とう》先生への九つの質問  その3 今後の刊行予定あおり文句付き紹介 と、盛りだくさんになっております。  では、さっそくまいりましょう。  猛暑のさなかの七月中旬、私は新作の取材旅行もかねて、九州に行ってまいりました。|羽《はね》|田《だ》から一時間半ぐらいで、あっというまに着いてしまい、本当にここは九州なのかとしばらく半信半疑でした。  九州は陽射しこそ強いけど、からりとしていてそんなに暑くないと、長期出張に行っていた義弟から聞いていましたが、いやはや|蒸《む》し暑いのなんのって、仕事で徹夜明けだった私は、最初の日からホテルでダウンしてました。屋台の食べ歩きをしようと楽しみにしてたんですが、あえなくリタイア。  それでも二日めには、旅行のメイン・エベントである紫堂先生のアトリエ訪問に向けて復活(どこが取材旅行だと、陰の声もありますが)。  その日は|能《の》|古《この》|島《しま》か、|志《し》|賀《がの》|島《しま》に行くつもりでしたが、あまりの暑さにひからびそうだったので、予定を変更し、先生みずからのご案内で|天《てん》|神《じん》|界《かい》|隈《わい》を歩きまわりました。  本屋さんや、ポプリの店や、銀製品の店や、画廊などをのぞき、アシスタントのタミーちゃんと合流してインド料理を食し(ナンがとってもおいしかった)、そうしてずうずうしくも一夜の宿をお借りしに先生のアトリエへと向かったのであります。  ポプリがほのかに香り、観葉植物が葉を繁らすお部屋で、イラストについてのよもやま話、苦労話をうかがってまいりました。読者のみなさまも、どのようにしてあの|華《か》|麗《れい》なイラストが生まれるのか、興味がおありでしょう。このあとでご紹介します。  ハーブティーをいれていただき、お手製のサンドイッチまで出していただき、|生《なま》|原《げん》|稿《こう》まで見せていただいた私は、暑さ以上にぼうっとのぼせあがってしまいました。これはミーハーファンの究極の夢の実現でしょうね。  三日め、泣く泣くアトリエからお別れし、特急つばめ号で|長《なが》|崎《さき》へ。車中の窓から、煙たなびく|雲《うん》|仙《ぜん》|岳《だけ》もながめられ、のんびりと観光に来ているのが申しわけなく思いました。  長崎は予想以上に美しい町でした。|稲《いな》|佐《さ》|山《やま》からの夜景もきれいでしたが、グラバー園からながめられる港の光景はすばらしかった。『長崎殺人事件』の『あとがき』で|内《うち》|田《だ》|康《やす》|夫《お》先生が、これまで訪れた中で最も美しい町だと書いてらっしゃったのを思い出し、うなずいてしまいました(|浅《あさ》|見《み》|光《みつ》|彦《ひこ》|氏《し》の大ファンの私は、地名シリーズを全巻読んでます。今度、文庫の解説を書かせていただきました)。  いちおう取材旅行の成果もあり(いつかどこかでご|披《ひ》|露《ろう》します)、次の日はゆっくりと温泉につかり、仕上げに|太《だ》|宰《ざい》|府《ふ》を見学して帰路につきました。  短い夏休みも終わり、帰ってきた私を待ちうけていたのは、引っ越しのダンボールと仕事の山でした、しくしく。  ではお待ちかね、|紫《し》|堂《とう》先生への九つの質問、いってみましょう。 Q1 イラストのお話が最初にきたときは、どう思われましたか。 A1 「あたし、十六歳。今、片想い中なの!」なんてお話のイラストを、一度描いてみるのもいいなあ、と思ったんです。でも、内容をうかがったら、全然ちがいましたね……。 Q2 なんでも、その内容の説明と実際がまったくちがっていたとか。 A2 はあ、ある老賢者と、そのお供のふたりの青年たちの道中もので、その青年たちはお互いにつきあってる女性はいながらも、意識しあっている、という内容だと。なんだか、微妙にちがいませんか。 Q3 ちがいますねえ、なにか微妙に……。その「意識しあっている関係」というのは(笑)、実際の作を読まれて、気になりませんでしたか。そこのところで断られてしまったら仕方ないなと、ややあきらめていたんですよ。 A3 正直いいまして、はじめは先入観があって、これは困ったなあと……(笑)。でも、作品全体に流れる|雰《ふん》|囲《い》|気《き》がとても上品だったし、そういうエピソードに頼りすぎないしっかりした内容にひかれて、一巻のゲラを読み終えるころには、喜んで描かせていただこう、という気持ちになっていました。 Q4 今まで、描かれるうえで苦労されたことは。 A4 イラストはあくまでも、主役の文章を引き立たせるためのもの。だからといって、私の個性をぶつけてみないのも、おもしろくないですからね。そのあたりの兼ねあいがむずかしかった。けれど、|小《お》|沢《ざわ》さんが一任してくださったので、人物の表情など私自身の解釈でかなり自由に描いてしまいました。キャラクターのデザインについてもそうでしたが、ただグリフォンだけは、はじめのデザインではもっと美男だったんですよね。ところが小沢さんからのひとこと——「ハンサムすぎます。この人、もっと、ヘンな人なんです」で、今の顔になっちゃった(笑)。お会いしたとき、実際に衣装あわせなどもして、あれはなかなか楽しかった。 Q5 ほんと、グリフォンは最初、すごい美男だったんですよね。これでは主役がくわれてしまうと、ついついひとこと言ってしまって……。今なら、美男子は多ければ多いほどいい、なんて思ってますけど(笑)。これまでで一番気に入っているシーンと、苦労したシーンはどれでしょうか。 A5 章カットは、わりに気楽に描けますし、いろいろ遊べておもしろいんです。でも、内容のイラストは、どれもそれぞれ苦労してます。その場面に描かれた人間関係や心理の|交《こう》|錯《さく》を、うまく一枚の画面におさめるように考えなければなりませんから。イラストは描かなかったけれど、二巻の、アヤがイェシルを助けてほしいと宿屋へ交渉にやってくる場面は、登場人物たちがまるで演劇のように配置されていて、心理描写がとてもおもしろかった。ご存じのとおり、こういう演劇的なシーンは随所にちりばめられていて、舞台の上の俳優を描くような気持ちで描いています。 Q6 イラストは編集の人が場所を指定すると聞いていますけど、描きたいシーンを指定されてみるのもいかがですか。 A6 章の|扉《とびら》が、かならず左おこしではいる、などの制約がありますから、たくさんは指定できないと思いますが、ここはぜひ、というのは可能でしょうね、でも、今、私のほうにあまり時間的なゆとりがなくて、どんどんできあがる小説におっかけられている感じなんです。近いうちに立場の逆転を|狙《ねら》っているんですが、この敵(小沢氏)は手ごわい(笑)。それに、私が指定しちゃうと、ギャグみたいなところばっかりになってしまうかもしれませんよ。 Q7 いやあ、そのうちきっと追いつかれます。今年前半、過去の遺産に頼って、遊びほうけましたもの(笑)。ところで、ひとつミーハーな質問ですが、お好きなキャラとその理由は。 A7 リュー君です。一番正直で、悪気のないキャラクターだと思うんだけどな。 Q8 そういえば、彼が一番、ギャグタッチのシーンの登場回数が多いですね。ギャグが愛情のバロメーターとか(笑)。ほかのキャラはいかがですか。 A8 そうですねぇ、個々のキャラクター・デザインが、そのキャラに対する私の受け取り方を、すべて物語ってるんじゃないでしょうか。たとえばエリーなどは、ひとりで立っているところを描くともっと強い感じになるのに、リューの横に立たせるとすっとうしろに控えるような絵になってしまう。私がそんなふうに受け取っているのかもしれません。女性キャラはみな、ナナイヤも、好感をもって描いています。 Q9 では最後に、ここだけは描きたくないというシーン、たとえばちょっとあぶないシーンを指定されたら、どうしますか。 A9 花でも飛ばして隠しておきます、なんてね(笑)。何度もいいますが、イラストは脇役。印象的な場面をわざとすこしはずして、あとは文章で味わっていただくのが、一番いいと思いますよ。 [#地から2字上げ](七月二十日、紫堂先生ご自宅にて)  このQ&A、対談ふうになっていますが、実際は小型ワープロを交互に打ちこんでいったものです。ふだん、直接お話ししているときや、深夜の愛と狂乱の交換FAXよりはややおとなしめになっております。  前に紫堂先生は「イラストは、なくてもよいけど、あると|華《はな》やかでいい|F《エフ》|1《ワン》ギャルのようなものです」とおっしゃっておられましたが、このシリーズに関してはむしろ「プリマドンナをしっかりと支える名パートナー」じゃないかと思ってます。今の私は、最初のパートナーをミロノフ先生にしてしまった落ちこぼれのノンナちゃん(若い方はわかんないかな、このたとえ)の心境です。  さて、四巻めでもちらとふれました "Tales From Third Moon " シリーズの今後の刊行予定について、まいりましょう。  このあとは一冊完結のエピソードが三つ、続きます。おもにふたりが北方の地を旅していたときの話です。それぞれタッチが全然ちがうんですが、〈北方三部作〉とでも呼んでおきます。  次の巻、シリーズ六冊めはその〈北方三部作〉の第一弾『女神の祝祭日』。  北のはずれの深い霧の都に迷いこんだふたりをおそう|戦《せん》|慄《りつ》の出来事は——。真冬にお送りするのにふさわしい(?)ホラータッチのお話です。  私家製小冊子に収録した『霧深き女神の都』のロング・ヴァージョン版ではありますが、まったくちがった話としても読めるようになってますので、タイトルを変えました。  その次の第二弾は『|魔術師《まじゅつし》の弟子』、ちょっとあぶなくてロマンチックなラブ・ストーリィになる予定。白魔術の都シヴァスで、商才のあるエリーちゃんが|占《うらな》い|師《し》の店を開いて|大繁盛《だいはんじょう》する話です。これはもしかしたら、上下巻になるかも。  第三弾『石像はささやく』は、彫刻コンクールが毎年おこなわれる芸術の国マイアに広まる|奇《き》|怪《かい》な|噂《うわさ》を解明するという、ミステリータッチの話になるでしょう。 〈北方三部作〉のあとは、ちょっと長めの(四冊か、五冊分ぐらい)、『ムーン・ファイアー・ストーン』のすぐ直後にあたる話をやる予定です。〈海洋冒険編〉と仮タイトルをつけたように、海を舞台とした話です。青い都を出発したふたりがいかなるなりゆきで船に乗りこむはめになるか、ふたりのあとを追った★☆(まだ五巻めを呼んでない人のために名は伏せます)はどのようにからんでくるか、お楽しみに。  ついでに宣伝してしまって申しわけありませんが、某K書店S文庫より出ています別シリーズもよろしくお願いします。こちらとはかなりトーンがちがいますが、「一作一美男子」の原則(?)は守った、なかなかの傑作です。  すべて予定は未定ですから、もし内容が変わってしまったり、書けなくなったりしたらご|容《よう》|赦《しゃ》ください。  まだほとんど書いてないのに、こんなに予告してしまってどうしようかと本当は不安ですが、シリーズはつづきますので今後もおつきあいくださったら幸いです。お忙しい|紫《し》|堂《とう》先生にもお世話をおかけいたします。  だいたい隔月のペースで(あくまで、だいたいですので、目安ぐらいに)出る予定になってますから、ちゃんと出ていたらほめてください。  ではまた、シリーズ六冊めでお会いしましょう。   九一年八月 [#地から2字上げ]|小沢淳《おざわじゅん》 本電子文庫は、講談社X文庫ホワイトハート(一九九一年一〇月刊)を底本といたしました。 |青《あお》い|都《みやこ》の|婚《こん》|礼《れい》 ムーン・ファイアー・ストーン5 講談社電子文庫版PC |小沢淳《おざわじゅん》 著 (C) Jun Ozawa 1991 二〇〇三年三月一四日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001